2010年 06月 26日
三日月バビロン『アルカディアの夏 ~日付のない部屋~ 』 |
昨日はどうしても外せない用事があり、三日月バビロンの新作公演『アルカディアの夏 ~日付のない部屋~ 』の初日を観に行く事が出来なかった。
三日月の公演の初日を観れなかったのは、まだ三日月少年という劇団名だった2000年に初めて『コクーヤ ~水時計サナトリウム~』を観て以来初めての事ではないかと思う。
そこで、今日は本来昼間は別の用事があり、夜回しか予約していなかったのだが、予定を変更して当日券での昼回も含めて2回公演を観て来た。
今回の公演のタイトルを目にした時、僕にはひとつの予感があった。それは今作が三日月に取っての王道路線への回帰となる作品になるのではないかという予感だった。
前作『 琥 珀 ノ 宴 』そして、前々作『トロイメライ~翼の枷~』は、それぞれ全く方向性の違う作品であるが、従来の三日月の作品とはかなり異なったアプローチの作品であるという事では共通していた。
そして、どちらの作品も作・演出の櫻木バビさんの成長を強く感じさせるものであり、またそれぞれの方向性の目指していた到達点に達した作品でもあったと思う。
だから、従来とは異なった作品へのアプローチはここで一区切り付けて、その過程で手に入れた表現の幅を今度は王道路線の作品に反映させる作品となるのではないかと感じたのだ。
その予感は半分は当たっていたが、半分は外れていた。今作は確かにそこに描かれているテーマや舞台設定、人物設定等は三日月の王道路線だと言って良いものだったと思う。しかし、作品のアプローチは従来の作品とは全く異なるものだった。
それがどんなものであったかを語る前に断っておく必要がある。僕は今までこのブログの三日月の舞台の感想では、一応千秋楽前にアップするものはネタバレには配慮して書いて来たつもりだし、今回も物語の内容や核心部分には触れるつもりはない。でも、物語の核心よりもこの作品のアプローチについて語る方がこの作品にとってはネタバレと言って良いかもしれない。
また、そのアプローチについて語る為に、ある程度物語の内容に付いても触れざるを得ないと思う。
だから、この作品を観る予定のある人は観劇前にはこの先は読まない様にして頂いた方が良いかもしれないと思う。
では、話を進めよう。櫻木バビさんはこれまで難解になりがちな三日月作品を何とか分かりやすくする事に挑戦して来たと思う。それは前作『琥珀ノ宴』で結実し、櫻木さんはかつてないポピュラリティを手に入れたと思う。しかし、今作では前作で手に入れた軽快な演出を取り入れつつも、物語に関しては非常に分かり難いものになっている。
何故ならば、この作品には少なくとも3人の現実には実在していないと思われる人物と、もう一人実在はしている様ではあるけど、何故そこにいて、何故そこにいる事に誰も疑問を感じないのか不明な人物が登場するのだが、その説明がほとんどないまま物語は進行するのである。
内、二人に付いては物語に進むに連れ、一応その素性は語られるのだが、彼らが何故そこにいるのか、彼らが抱えているものが何なのかという事については、多少輪郭を匂わせるだけで結局最後まではっきりとは語られないのである。
そして、ひとりについてはその素性を想像するヒントが幾つか語られるのみで、名前さも明らかにされないままなのである。
当然主人公もそれらの謎を知りたいと願う。しかし、謎を知っていて、その謎を主人公に教える役割を担うと思われていた人物が、「来年になったら教えてやる」と言い放ち、物語の中では結局最後までそれを語る事はないのである。
そして残る一人については、そこに実在している理由が終盤に説明されるのだが、それは一見納得出来る理由に感じられるものであるが、正確には矛盾をはらんでいる。その説明がされた時点でそこに実在している理由にはなっているのだが、その理由はそれ以前のシーンでその人物が実在した理由にはなっていない。つまり時間軸が狂っているのだ。
このように、この物語は唯一もっともらしく説明される事柄でさえも、辻褄があっておらず、まるで辻褄が合わず矛盾に満ちていても、見ている間はそれに気付かず疑問を感じずリアルに受けとめてしまう真夏の夜の悪夢の様なものとして描かれている。
あるいは、物語の中で主人公自身が己を疑う様にまるで狂人の妄想の様でもある。
過去の三日月の舞台を観た事がない人には、本当にただの狂人の妄想を描いた作品の様に感じられてしまうかもしれない。そうでなくても、おそらくこの物語を理解する事は困難で、物語に感情移入する事も難しいのではないかと思う。
しかし、これまでの三日月の作品を愛して来たファンにとっては、説明されない事柄は説明される必要もなく、この物語を充分理解し、共感する事が可能なのではないかと思う。
例えば、一見時間軸が狂っている様に思える事にも理由はある筈だ。それが明確には語られないので、その理由に関しては断定は出来ず想像するしかないのだが、想像する余地が多いのもこの作品の特徴と言う事が出来る。三日月の舞台を見慣れている人に取っては、それを想像する事は難しい事ではない筈だし、むしろ舞台を楽しむ要素となっていると言えるだろう。
また、この作品には従来の作品と大きく異なる事がもうひとつある。従来の作品の主人公は誰も大切な誰かを失ったという過去を持っていた。しかし、この作品の主人公にはその過去はないのである。
それは、この物語では主人公が大切な誰かを失うという現在を描いているからである。そして、主人公以外の登場人物には過去に大切な誰かを失っている人物もいて、もしかすると未来にそれを体験する人物もいるのかもしれない。
つまり、今作は従来の三日月作品とは異なった時間軸で語られる物語と言って良いだろうし、過去と現在、未来が交錯する物語と言っても良いだろうと思う。
従来の三日月作品も全て未来への希望を描いて来た。それは過去の呪縛からの解放という形で描かれて来たのだが、今作では現在よりも過去よりも未来を選択するというより積極的な形で描かれているという事が出来るだろう。
梅原真実さんが演じる名前も名乗らない人物。彼女は名前を聞かれて、一瞬名前を名乗れない理由はないと言いかけて、不都合があると思い直し口を閉ざす。その理由は多分彼女は未来からやって来たタイムトラベラーであり、未来で主人公との出会いが待っているからであろう。
この描写は通常のタイムトラベルものの描写とは逆パターンである。通常のタイムトラベルものでは読者は登場人物がタイムトラベラーだと知っていて、彼がうっかりその時代の人間が知り得ない事を話してしまいそうになるのをハラハラしながら見守るのだが、今作ではタイムトラベラーだとは知らされていない登場人物の素性をその言動から観客は推察する事になるのである。
この逆パターンは、この作品が従来の三日月作品とは逆パターンで描かれている事を示すひとつのヒントになっているのだと思う。
おそらくは梅原さん演じる人物は過去に思いを馳せる従来の三日月作品の主人公のメタファーであり、現在を過去に変えて未来へと向かって行く今作の主人公と逆向きな時間軸ですれ違うのである。
この様に、この物語を紐解くヒントは至る所に散りばめられている。漫然として観ていたら見落としてしまいそうな所に、さりげなくそのヒントは潜まされているので、観る者に対してある程度のスキルを要求する舞台と言えるのではないかと思う。
ただし、先入観や既成概念に囚われず、素直にこの舞台を観る事が出来れば、そのヒントを見逃す事はないだろう。それはこの作品の中のユノの台詞「だってそう描いてあるもの」の通りだと言える。つまりこの台詞もヒントのひとつであり、メッセージのひとつでもあると言えるだろう。
従来の三日月作品よりも、より強く未来への思いを描いたこの作品。それは前二作を描き切る事で櫻木バビさんの中で何かが大きく変わった事を意味するのではないかと思う。
でも、きっとそれはまだ始まったばかり。櫻木バビさんが目指す新たな地平への到達を是非見届けたいと思う。
三日月の公演の初日を観れなかったのは、まだ三日月少年という劇団名だった2000年に初めて『コクーヤ ~水時計サナトリウム~』を観て以来初めての事ではないかと思う。
そこで、今日は本来昼間は別の用事があり、夜回しか予約していなかったのだが、予定を変更して当日券での昼回も含めて2回公演を観て来た。
今回の公演のタイトルを目にした時、僕にはひとつの予感があった。それは今作が三日月に取っての王道路線への回帰となる作品になるのではないかという予感だった。
前作『 琥 珀 ノ 宴 』そして、前々作『トロイメライ~翼の枷~』は、それぞれ全く方向性の違う作品であるが、従来の三日月の作品とはかなり異なったアプローチの作品であるという事では共通していた。
そして、どちらの作品も作・演出の櫻木バビさんの成長を強く感じさせるものであり、またそれぞれの方向性の目指していた到達点に達した作品でもあったと思う。
だから、従来とは異なった作品へのアプローチはここで一区切り付けて、その過程で手に入れた表現の幅を今度は王道路線の作品に反映させる作品となるのではないかと感じたのだ。
その予感は半分は当たっていたが、半分は外れていた。今作は確かにそこに描かれているテーマや舞台設定、人物設定等は三日月の王道路線だと言って良いものだったと思う。しかし、作品のアプローチは従来の作品とは全く異なるものだった。
それがどんなものであったかを語る前に断っておく必要がある。僕は今までこのブログの三日月の舞台の感想では、一応千秋楽前にアップするものはネタバレには配慮して書いて来たつもりだし、今回も物語の内容や核心部分には触れるつもりはない。でも、物語の核心よりもこの作品のアプローチについて語る方がこの作品にとってはネタバレと言って良いかもしれない。
また、そのアプローチについて語る為に、ある程度物語の内容に付いても触れざるを得ないと思う。
だから、この作品を観る予定のある人は観劇前にはこの先は読まない様にして頂いた方が良いかもしれないと思う。
では、話を進めよう。櫻木バビさんはこれまで難解になりがちな三日月作品を何とか分かりやすくする事に挑戦して来たと思う。それは前作『琥珀ノ宴』で結実し、櫻木さんはかつてないポピュラリティを手に入れたと思う。しかし、今作では前作で手に入れた軽快な演出を取り入れつつも、物語に関しては非常に分かり難いものになっている。
何故ならば、この作品には少なくとも3人の現実には実在していないと思われる人物と、もう一人実在はしている様ではあるけど、何故そこにいて、何故そこにいる事に誰も疑問を感じないのか不明な人物が登場するのだが、その説明がほとんどないまま物語は進行するのである。
内、二人に付いては物語に進むに連れ、一応その素性は語られるのだが、彼らが何故そこにいるのか、彼らが抱えているものが何なのかという事については、多少輪郭を匂わせるだけで結局最後まではっきりとは語られないのである。
そして、ひとりについてはその素性を想像するヒントが幾つか語られるのみで、名前さも明らかにされないままなのである。
当然主人公もそれらの謎を知りたいと願う。しかし、謎を知っていて、その謎を主人公に教える役割を担うと思われていた人物が、「来年になったら教えてやる」と言い放ち、物語の中では結局最後までそれを語る事はないのである。
そして残る一人については、そこに実在している理由が終盤に説明されるのだが、それは一見納得出来る理由に感じられるものであるが、正確には矛盾をはらんでいる。その説明がされた時点でそこに実在している理由にはなっているのだが、その理由はそれ以前のシーンでその人物が実在した理由にはなっていない。つまり時間軸が狂っているのだ。
このように、この物語は唯一もっともらしく説明される事柄でさえも、辻褄があっておらず、まるで辻褄が合わず矛盾に満ちていても、見ている間はそれに気付かず疑問を感じずリアルに受けとめてしまう真夏の夜の悪夢の様なものとして描かれている。
あるいは、物語の中で主人公自身が己を疑う様にまるで狂人の妄想の様でもある。
過去の三日月の舞台を観た事がない人には、本当にただの狂人の妄想を描いた作品の様に感じられてしまうかもしれない。そうでなくても、おそらくこの物語を理解する事は困難で、物語に感情移入する事も難しいのではないかと思う。
しかし、これまでの三日月の作品を愛して来たファンにとっては、説明されない事柄は説明される必要もなく、この物語を充分理解し、共感する事が可能なのではないかと思う。
例えば、一見時間軸が狂っている様に思える事にも理由はある筈だ。それが明確には語られないので、その理由に関しては断定は出来ず想像するしかないのだが、想像する余地が多いのもこの作品の特徴と言う事が出来る。三日月の舞台を見慣れている人に取っては、それを想像する事は難しい事ではない筈だし、むしろ舞台を楽しむ要素となっていると言えるだろう。
また、この作品には従来の作品と大きく異なる事がもうひとつある。従来の作品の主人公は誰も大切な誰かを失ったという過去を持っていた。しかし、この作品の主人公にはその過去はないのである。
それは、この物語では主人公が大切な誰かを失うという現在を描いているからである。そして、主人公以外の登場人物には過去に大切な誰かを失っている人物もいて、もしかすると未来にそれを体験する人物もいるのかもしれない。
つまり、今作は従来の三日月作品とは異なった時間軸で語られる物語と言って良いだろうし、過去と現在、未来が交錯する物語と言っても良いだろうと思う。
従来の三日月作品も全て未来への希望を描いて来た。それは過去の呪縛からの解放という形で描かれて来たのだが、今作では現在よりも過去よりも未来を選択するというより積極的な形で描かれているという事が出来るだろう。
梅原真実さんが演じる名前も名乗らない人物。彼女は名前を聞かれて、一瞬名前を名乗れない理由はないと言いかけて、不都合があると思い直し口を閉ざす。その理由は多分彼女は未来からやって来たタイムトラベラーであり、未来で主人公との出会いが待っているからであろう。
この描写は通常のタイムトラベルものの描写とは逆パターンである。通常のタイムトラベルものでは読者は登場人物がタイムトラベラーだと知っていて、彼がうっかりその時代の人間が知り得ない事を話してしまいそうになるのをハラハラしながら見守るのだが、今作ではタイムトラベラーだとは知らされていない登場人物の素性をその言動から観客は推察する事になるのである。
この逆パターンは、この作品が従来の三日月作品とは逆パターンで描かれている事を示すひとつのヒントになっているのだと思う。
おそらくは梅原さん演じる人物は過去に思いを馳せる従来の三日月作品の主人公のメタファーであり、現在を過去に変えて未来へと向かって行く今作の主人公と逆向きな時間軸ですれ違うのである。
この様に、この物語を紐解くヒントは至る所に散りばめられている。漫然として観ていたら見落としてしまいそうな所に、さりげなくそのヒントは潜まされているので、観る者に対してある程度のスキルを要求する舞台と言えるのではないかと思う。
ただし、先入観や既成概念に囚われず、素直にこの舞台を観る事が出来れば、そのヒントを見逃す事はないだろう。それはこの作品の中のユノの台詞「だってそう描いてあるもの」の通りだと言える。つまりこの台詞もヒントのひとつであり、メッセージのひとつでもあると言えるだろう。
従来の三日月作品よりも、より強く未来への思いを描いたこの作品。それは前二作を描き切る事で櫻木バビさんの中で何かが大きく変わった事を意味するのではないかと思う。
でも、きっとそれはまだ始まったばかり。櫻木バビさんが目指す新たな地平への到達を是非見届けたいと思う。
by ko1kubota
| 2010-06-26 23:23
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