2005年 09月 23日
山崎監督長編三部作一挙上映 |
今日はSpeace Neoで山崎幹夫監督の「極星」「猫夜」「虚港」の長編三部作の一挙上映があった。
いつもラ・カメラでの上映は新作の上映が中心なので旧作を観る機会は余りなく、「虚港」はまだBOX東中野があった頃の山田監督、山崎監督の特集月間に出来るだけ通った時に観る事が出来たのだが、「極星」と「猫夜」はスケジュールが合わず観られなかったので、この2本は今回が初見になる。
いつものラ・カメラの上映なら夕方からなのだが、今日は長編三部作の一挙上映という事もあり、上映開始時間が13時からとかなり早い。初めていく会場でもあるので、余裕を持って出かけたかったのだが、昨夜がかなり遅かった事もあって出かけるのがギリギリの時間になってしまった。
最初はお茶の水駅から歩くつもりだったのだが、ギリギリの時間になってしまった為、最も近い小川町駅から行った方が良いかも知れないと考えを変えて新宿で都営新宿線に乗り換えたのだが、都営新宿線を利用した事がなかった為、予想以上に乗り換えで長い距離を歩く事になり、乗り換えのロスタイムを考えると真っ直ぐお茶の水まで行った方が速かったに違いないと後悔する。
案の定、上映開始時間に遅れてしまった。受付では今始まったばかりと言われたのだが、多分数分位遅れてしまったと思う。更に落ち着いてスクリーンに集中出来るまでに時間がかかってしまった。上映時間に遅れてはいけないと改めて痛感する。
「極星」は山崎監督が北海道から東京に戻ってから最初に撮った長編であり、おそらく映像通り魔というグループでの映画製作から、個人による映画製作へと体制が変わった事により、新しい映画製作の方向性を模索していた頃の作品だと思う。
実際には短編作品では既に個人製作のスタイルは確立されつつあったのだが、そのスタイルの延長線上で長編の劇映画を作ろうというのは、結構難しい挑戦ではなかったかと思う。
劇映画ではあるのだが、シナリオがあって役者が役を演じるという通常の映画のスタイルではない。前半部では北海道時代から山崎監督の作品に出演している神岡猟が何かの役を演じていると思われるカットの断片が積み上げられていくのだが、それは行き詰まり、最終的には神岡猟は役から開放され、作品自体も従来の劇映画のスタイルや、約束事から開放されていく。
つまり北海道時代に確立されたスタイルを捨て去り、新たなスタイルを確立していく過程が描かれた作品だといえると思う。その作品に北海道時代の作品にも出演している神岡猟が出演しているという事が、この映画をより明確にしていると思う。
最初は北海道時代と同じように映画作りが始まるのだが、最終的には映画は全く違う方向性の作品として完成する。その過程で神岡猟の役割が単なる役者から、山崎監督の分身的存在へと変化していく事がこの映画を象徴していると思う。
途中、山崎監督は同じく北海道時代の作品に出演していた寺本恵子を京都に訪ねていき、そこで彼女と彼女の子供に会う。この渡し船のシーンがとても印象的だ。この映画には明確なストーリーの様なものはないのだが、このシーンはとても強く物語を感じさせる。
このシーンを観ていると映画というのは、何も語らなくても背後に物語を感じさせる映像さえ撮れれば、それで映画として成立するのだという事を確信させられる。
そして、そこに確かに物語はリアルに存在するのだ。ただ、観客はその詳細を知らされる事はないのだが、そこに描かれているのは、役を演じている役者の姿のではなく、リアルに生きている人間の束の間の再会の真実の映像であり、その背後にはどんなものであれ物語がある事は確かなのだ。そしてそれを饒舌に語る必要はない。むしろ語らない方が作品としてより深みが増すのだという事をこの作品は示していると思う。
「猫夜」は「極星」を更に押し進めた作品だと言える。この作品は「極星」で再会した寺本恵子が息子と共に東京に引っ越して来る所から始まり、そして山崎監督と神岡猟と寺本恵子という北海道時代からの三人による映画作りが始まるのだが、今度は「極星」と違い、最初から北海道時代とは全く違ったスタイルで映画が作られていく。
改めて振り返ると、この作品は終わりの為の映画の様な気がする。「極星」で北海道時代とは異なる映画製作のスタイルを確立するが、今度は仲間と一緒に作品を作るという事にピリオドを打つ。その事を2年以上の歳月をかけて実行しその過程を映画にした様な作品だ。
最初の引っ越しによる再会からスタートするこの映画は、その後3つの別れを描いていく。セルは海外へ放浪の旅に出て戻らず、寺本恵子親子は東京を去り、神岡猟は山崎監督にカメラを返し、山崎監督と一緒に映画を作るという事から決別する。
この映画にはシナリオはなく、明確なストーリーはないが、かつて学生時代一緒に映画作りをしていた仲間が卒業後、それぞれの人生を生きていく事で進む道が分かれていく過程を追ったドキュメントであるとも言える。
この映画では3人がそれぞれカメラを持ち、自分の日常を撮影していくのだが、その映像は思った程交錯する事もなく、監督である山崎監督によって方向性をコントロールされる様な事もなく、ただ淡々と進む。寺本恵子は子供ばかりを撮り、神岡猟は寮の部屋や飲み会等の日常を思い出したように収めるだけ、その中で山崎監督だけが映像作家としての活動へ向き合っている。もはや3人の進む人生は別々であり、昔の様に交錯はしないのだという事が映像から説得力を持って伝わって来る。
山崎監督はこの映画を撮り始める時から、その事が分かっていたのかも知れない。だから、仲間と一緒に映画を撮る最後の作品として、それを終わるという事を描いた作品を作りたかったのかも知れない。
この作品にはシナリオもなく、登場人物が接触するシーンも凄く限られている。だから、ほとんどドラマ的な要素はない。だが、たまらなくドラマティックだ。物語を語る事なく、物語を感じさせる作品は作れるのだという事を証明した作品と言えるだろう。
3人が別々にカメラを回して自分の日常を撮るという手法で映画を撮るのに理想的な状況が登場人物の間に合ったのだと思うし、この時期、この3人でなければ撮れなかった映画だと思う。
この映画のラストカットは寺本恵子の息子カズ君が撮った木陰に腰掛ける寺本恵子の映像だ。このカットで、寺本恵子は山崎監督のファンに取っては永遠に山崎作品の中に封印される事になる。幼い男の子が撮った、若い母親の姿。それ以上に永遠を感じさせるに相応しい映像があるだろうか?
「虚港」は他の2作品とは無関係ではないが、実際には対照的な作品だと言える。他の2作品が従来の劇映画の制作スタイルに背を向けているのに対し、「虚港」はシナリオに沿ってシステマティックに撮影されるというオーソドックスなスタイルで制作されている。そして、前2作品がある意味ドキュメンタリーとしての側面を持っているのに対し、「虚港」はドキュメンタリーを模したシナリオによって進められるが、完全なフィクションである。また、全2作品が実質的には物語を語らないのに、強く物語を感じさせるのに対し、「虚港」は物語を語りながら、最終的にはその物語を放棄してしまう。
この作品は三部作の前2作品を含めたそれまで撮って来た作品を通して、山崎監督が獲得して来た手法や映画というものに対する考えをひとつの作品へと集約させたものの様に感じる。
この時点での自分の力で劇映画というジャンルでどれだけのものが出来るのかという挑戦でもあり、劇映画というジャンルに対する決着を付けたのだとも言えるのではないかと思う。
事実、山崎監督はこれ以降いわゆる長編の劇映画と呼べる様な作品は撮っていない。山崎監督は常にまだ観た事のない映画を撮ろうと考え、自分が確立したスタイルも繰り返す事を良しとせず、絶えず前進し続けている。その過程で作られた3作の長編劇映画は、山崎監督の作品の中でも特に大きな意味を持った作品群であると思う。
その3作品を一度に3本観るというのは、しかもその内2本が初見というのはかなりヘビィな体験だったと思う。出来れば、1本1本別々にじっくり観たかったと思うし、特に単独で観たことがある「虚港」以外の2本は、出来れば早い時期にまた繰り返し観てみたいと思う。
1日長編を3本というのは肉体的にも結構きつかった。それも椅子がしっかりした劇場ではなく、自主制作映画の上映スペースでの上映だから、とにかくお尻が痛くて大変だった。
だが、上映後の会費2千円のパーティは素晴らしかった。ビールは飲み放題で、作品にゆかりのある地元の地酒も用意され、山崎監督手作りのインド風餃子サモサを初め、数種類の本格的なカレーを中心においしい料理も次々と出て来て食べきれない程だった。
上映開始時間が早かったので、パーティの時間もたっぷりあり、山崎監督を囲んで色々と楽しい話に花が咲き非常に盛り上がった。会場には映像作家の高遠 瑛さんやChrome Greenの吉本さんもいらしており、パーティの後半では吉本さんとお話したが、いつも吉本さんとは挨拶+α位のお話しかしていなかったので、初めて作品の感想等をじっくりお話出来た。
パーティはお開きになったが、山崎監督ご自身が「まだ終電まで1時間程あるので、飲み足りない人はもう一杯行きましょう」と提案し、お茶の水の駅前の居酒屋へ場所を移して更に1時間程談笑する事になった。
居酒屋に移動したメンバーには、山形国際ドキュメンタリー映画祭に「帰郷 ー 小川紳介と過ごした日々ー」が上映される事が決まったという大澤未来監督、岡本和樹監督ら、若い映像作家の方達が含まれており、山形へ持っていく為にSpece Necoから借りて来た座布団を抱えていたのだが、その姿が初々しくまぶしく感じた。
山崎監督が居酒屋へ行こうと言い出したのも、彼ら若い映像作家達との親交が持てる事が嬉しかったのだろうと思った。
いつもラ・カメラでの上映は新作の上映が中心なので旧作を観る機会は余りなく、「虚港」はまだBOX東中野があった頃の山田監督、山崎監督の特集月間に出来るだけ通った時に観る事が出来たのだが、「極星」と「猫夜」はスケジュールが合わず観られなかったので、この2本は今回が初見になる。
いつものラ・カメラの上映なら夕方からなのだが、今日は長編三部作の一挙上映という事もあり、上映開始時間が13時からとかなり早い。初めていく会場でもあるので、余裕を持って出かけたかったのだが、昨夜がかなり遅かった事もあって出かけるのがギリギリの時間になってしまった。
最初はお茶の水駅から歩くつもりだったのだが、ギリギリの時間になってしまった為、最も近い小川町駅から行った方が良いかも知れないと考えを変えて新宿で都営新宿線に乗り換えたのだが、都営新宿線を利用した事がなかった為、予想以上に乗り換えで長い距離を歩く事になり、乗り換えのロスタイムを考えると真っ直ぐお茶の水まで行った方が速かったに違いないと後悔する。
案の定、上映開始時間に遅れてしまった。受付では今始まったばかりと言われたのだが、多分数分位遅れてしまったと思う。更に落ち着いてスクリーンに集中出来るまでに時間がかかってしまった。上映時間に遅れてはいけないと改めて痛感する。
「極星」は山崎監督が北海道から東京に戻ってから最初に撮った長編であり、おそらく映像通り魔というグループでの映画製作から、個人による映画製作へと体制が変わった事により、新しい映画製作の方向性を模索していた頃の作品だと思う。
実際には短編作品では既に個人製作のスタイルは確立されつつあったのだが、そのスタイルの延長線上で長編の劇映画を作ろうというのは、結構難しい挑戦ではなかったかと思う。
劇映画ではあるのだが、シナリオがあって役者が役を演じるという通常の映画のスタイルではない。前半部では北海道時代から山崎監督の作品に出演している神岡猟が何かの役を演じていると思われるカットの断片が積み上げられていくのだが、それは行き詰まり、最終的には神岡猟は役から開放され、作品自体も従来の劇映画のスタイルや、約束事から開放されていく。
つまり北海道時代に確立されたスタイルを捨て去り、新たなスタイルを確立していく過程が描かれた作品だといえると思う。その作品に北海道時代の作品にも出演している神岡猟が出演しているという事が、この映画をより明確にしていると思う。
最初は北海道時代と同じように映画作りが始まるのだが、最終的には映画は全く違う方向性の作品として完成する。その過程で神岡猟の役割が単なる役者から、山崎監督の分身的存在へと変化していく事がこの映画を象徴していると思う。
途中、山崎監督は同じく北海道時代の作品に出演していた寺本恵子を京都に訪ねていき、そこで彼女と彼女の子供に会う。この渡し船のシーンがとても印象的だ。この映画には明確なストーリーの様なものはないのだが、このシーンはとても強く物語を感じさせる。
このシーンを観ていると映画というのは、何も語らなくても背後に物語を感じさせる映像さえ撮れれば、それで映画として成立するのだという事を確信させられる。
そして、そこに確かに物語はリアルに存在するのだ。ただ、観客はその詳細を知らされる事はないのだが、そこに描かれているのは、役を演じている役者の姿のではなく、リアルに生きている人間の束の間の再会の真実の映像であり、その背後にはどんなものであれ物語がある事は確かなのだ。そしてそれを饒舌に語る必要はない。むしろ語らない方が作品としてより深みが増すのだという事をこの作品は示していると思う。
「猫夜」は「極星」を更に押し進めた作品だと言える。この作品は「極星」で再会した寺本恵子が息子と共に東京に引っ越して来る所から始まり、そして山崎監督と神岡猟と寺本恵子という北海道時代からの三人による映画作りが始まるのだが、今度は「極星」と違い、最初から北海道時代とは全く違ったスタイルで映画が作られていく。
改めて振り返ると、この作品は終わりの為の映画の様な気がする。「極星」で北海道時代とは異なる映画製作のスタイルを確立するが、今度は仲間と一緒に作品を作るという事にピリオドを打つ。その事を2年以上の歳月をかけて実行しその過程を映画にした様な作品だ。
最初の引っ越しによる再会からスタートするこの映画は、その後3つの別れを描いていく。セルは海外へ放浪の旅に出て戻らず、寺本恵子親子は東京を去り、神岡猟は山崎監督にカメラを返し、山崎監督と一緒に映画を作るという事から決別する。
この映画にはシナリオはなく、明確なストーリーはないが、かつて学生時代一緒に映画作りをしていた仲間が卒業後、それぞれの人生を生きていく事で進む道が分かれていく過程を追ったドキュメントであるとも言える。
この映画では3人がそれぞれカメラを持ち、自分の日常を撮影していくのだが、その映像は思った程交錯する事もなく、監督である山崎監督によって方向性をコントロールされる様な事もなく、ただ淡々と進む。寺本恵子は子供ばかりを撮り、神岡猟は寮の部屋や飲み会等の日常を思い出したように収めるだけ、その中で山崎監督だけが映像作家としての活動へ向き合っている。もはや3人の進む人生は別々であり、昔の様に交錯はしないのだという事が映像から説得力を持って伝わって来る。
山崎監督はこの映画を撮り始める時から、その事が分かっていたのかも知れない。だから、仲間と一緒に映画を撮る最後の作品として、それを終わるという事を描いた作品を作りたかったのかも知れない。
この作品にはシナリオもなく、登場人物が接触するシーンも凄く限られている。だから、ほとんどドラマ的な要素はない。だが、たまらなくドラマティックだ。物語を語る事なく、物語を感じさせる作品は作れるのだという事を証明した作品と言えるだろう。
3人が別々にカメラを回して自分の日常を撮るという手法で映画を撮るのに理想的な状況が登場人物の間に合ったのだと思うし、この時期、この3人でなければ撮れなかった映画だと思う。
この映画のラストカットは寺本恵子の息子カズ君が撮った木陰に腰掛ける寺本恵子の映像だ。このカットで、寺本恵子は山崎監督のファンに取っては永遠に山崎作品の中に封印される事になる。幼い男の子が撮った、若い母親の姿。それ以上に永遠を感じさせるに相応しい映像があるだろうか?
「虚港」は他の2作品とは無関係ではないが、実際には対照的な作品だと言える。他の2作品が従来の劇映画の制作スタイルに背を向けているのに対し、「虚港」はシナリオに沿ってシステマティックに撮影されるというオーソドックスなスタイルで制作されている。そして、前2作品がある意味ドキュメンタリーとしての側面を持っているのに対し、「虚港」はドキュメンタリーを模したシナリオによって進められるが、完全なフィクションである。また、全2作品が実質的には物語を語らないのに、強く物語を感じさせるのに対し、「虚港」は物語を語りながら、最終的にはその物語を放棄してしまう。
この作品は三部作の前2作品を含めたそれまで撮って来た作品を通して、山崎監督が獲得して来た手法や映画というものに対する考えをひとつの作品へと集約させたものの様に感じる。
この時点での自分の力で劇映画というジャンルでどれだけのものが出来るのかという挑戦でもあり、劇映画というジャンルに対する決着を付けたのだとも言えるのではないかと思う。
事実、山崎監督はこれ以降いわゆる長編の劇映画と呼べる様な作品は撮っていない。山崎監督は常にまだ観た事のない映画を撮ろうと考え、自分が確立したスタイルも繰り返す事を良しとせず、絶えず前進し続けている。その過程で作られた3作の長編劇映画は、山崎監督の作品の中でも特に大きな意味を持った作品群であると思う。
その3作品を一度に3本観るというのは、しかもその内2本が初見というのはかなりヘビィな体験だったと思う。出来れば、1本1本別々にじっくり観たかったと思うし、特に単独で観たことがある「虚港」以外の2本は、出来れば早い時期にまた繰り返し観てみたいと思う。
1日長編を3本というのは肉体的にも結構きつかった。それも椅子がしっかりした劇場ではなく、自主制作映画の上映スペースでの上映だから、とにかくお尻が痛くて大変だった。
だが、上映後の会費2千円のパーティは素晴らしかった。ビールは飲み放題で、作品にゆかりのある地元の地酒も用意され、山崎監督手作りのインド風餃子サモサを初め、数種類の本格的なカレーを中心においしい料理も次々と出て来て食べきれない程だった。
上映開始時間が早かったので、パーティの時間もたっぷりあり、山崎監督を囲んで色々と楽しい話に花が咲き非常に盛り上がった。会場には映像作家の高遠 瑛さんやChrome Greenの吉本さんもいらしており、パーティの後半では吉本さんとお話したが、いつも吉本さんとは挨拶+α位のお話しかしていなかったので、初めて作品の感想等をじっくりお話出来た。
パーティはお開きになったが、山崎監督ご自身が「まだ終電まで1時間程あるので、飲み足りない人はもう一杯行きましょう」と提案し、お茶の水の駅前の居酒屋へ場所を移して更に1時間程談笑する事になった。
居酒屋に移動したメンバーには、山形国際ドキュメンタリー映画祭に「帰郷 ー 小川紳介と過ごした日々ー」が上映される事が決まったという大澤未来監督、岡本和樹監督ら、若い映像作家の方達が含まれており、山形へ持っていく為にSpece Necoから借りて来た座布団を抱えていたのだが、その姿が初々しくまぶしく感じた。
山崎監督が居酒屋へ行こうと言い出したのも、彼ら若い映像作家達との親交が持てる事が嬉しかったのだろうと思った。
by ko1kubota
| 2005-09-23 23:22
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