ko1kubota's Live and Stage Photo Archive blog
2017-03-23T02:51:03+09:00
ko1kubota
Diary and Column
Excite Blog
The StrutsとLuke Spillerに夢中
http://ko1kubota.exblog.jp/22086499/
2014-05-06T01:55:00+09:00
2017-03-23T02:51:03+09:00
2014-05-06T01:55:07+09:00
ko1kubota
Artist
僕は小5でビートルズを聴き始めて、小6の時に出会った同級生にマイク・オールドフィールドやクィーンを聴かされ、大きな衝撃を受けてハードロックやプログレッシブロックを聴き始めた。その後中学から高校にかけてロック漬けの日々を過ごし、70年代ロックを聴きまくって過ごした。
しかし、80年代に入ってから、洋楽の新人アーティストからロック色は薄れポップス色が強くなっていき、従来からのアーティストは聴き続けたが、余り新人アーティストに興味を持てなくなって行った。むしろ佐野元春のデビューに衝撃を受け、興味は邦楽に移って行った。
ところが、久々に夢中になれる新人アーティストに出会う事が出来た。もう、新人アーティストにこんなに胸をときめかせる様な事はないだろうと思っていたので、自分でも意外な程だが、それだけに飛び上がりたくなる程、嬉しい。
新人アーティストにこれだけ夢中になったのは、洋楽アーティストでは多分チープトリック以来だし、邦楽アーティストも含めるとDragon Ash、またはインディーズアーティストだが同世代のストロオズ以来だろう。
それは、イギリスの新人ロックバンド、The Strutsと、そのヴォーカリスト、Luke Spillerだ。
Kiss This EP / The Struts in iTunes Store
きっかけは、マイク・オールドフィールドの6年振りの新作発売のニュースだった。
マイク・オールドフィールドの新作『Man On The Rocks』から「Sailing」のPVが公開
それはマイクにとって、23年振りのヴォーカルナンバーのみのアルバムであり、マイク本人がヴォーカルを務めたその23年前の作品『Heaven's Open』を除けば、1人のヴォーカリストをアルバム全曲に起用した初のアルバムという異例なものだった。
その異例なアルバムに起用されたヴォーカリストはよほどの実力派に違いないと思ったら、それは意外な程に若くあどけない表情の青年だった。
しかし、確かに歌は抜群に上手いし、若いのに超大物のマイクとの共演も堂々としたもので、ただ者ではないヴォーカリストなのは間違いないと思った。一体何者だろうと思ったのだが、マイク新作のニュース記事からは、まだアルバムデビュー前の新人バンドThe StrutsのヴォーカルでLuke Spillerという名前だという事しか分からなかった。
そこで、情報を集め始めるのだが、実はこの時はアマゾンのマイク新作のレビューで「フレディ・マーキュリー似」と書かれていた事に、僕は「確かにフレディに似ていると言いたくなる位凄いヴォーカリストだというのは分かるけど、それ程似ている訳じゃないんじゃない?」と少々反発を覚えていた。
僕にとってクィーンは特別なバンドであり、フレディは特別なヴォーカリストだった。だから、そう簡単にフレディと似てるなんて言って欲しくないという気持ちが働いたとのだと思う。特に『Sailing』のPVで「こんなあどけない青年が?」と驚かされた時の印象で、僕にはフレディというより、ベイシティローラーズのメンバーの誰かっていうイメージじゃない?と感じられた。特に誰に似ているという訳ではないが、敢えて言うなら、レスリー・マッコーエンとイアン・ミッチェルを足して2で割った様な感じじゃないかと思っていたのだ。
ただ、今になって見てみると、このPVでも時にはドキッとする位、フレディ・マーキュリーに似ているカットもある。しかし、このとき僕はまだ第一印象に縛られていたのか、自分にとって唯一無二の存在であるフレディの存在が大き過ぎて認めたくないという心理が働いていたのか、それには気付いていなかった。
いずれにしても、ルーク・スピラーというヴォーカリストに魅せられた僕は、彼の事をもっと知りたいという思いと、ストラッツというバンドではどんな曲をやっているのかという思いから、YouTubeを検索して彼等のPVを発見し、マイクの新曲を聴いた時以上の衝撃を受ける事になる。
僕が最初にストラッツのPVを検索したのは、2014年3月21日。この時点ではストラッツは2曲のシングルをリリース済みで、『Kiss This EP』はまだリリース前であり、先行して『Kiss This』のPVが公開されたばかりで、リリース曲のPVが観られるのは3曲だけだった。
先ず驚いたのは、自分のイメージしていた現在の洋楽とは全く異なるロックテイストの強さだった。そして、ロックヴォーカリストとしてのルークのカリスマ性の強さと確かにフレディ・マーキュリーに凄く似ているという事に強い衝撃を受けた。
特に象徴的なのが『Could Have Been Me』のPVだ。冒頭で素朴な庭師の青年として登場したルークは、勤め先の豪邸に忍び込み、何故かお嬢様の部屋でメイクを始めて、フレディ・マーキュリーそっくりのロック・ヴォーカリストに変貌して行く。
ルックスだけではない。その歌い方までフレディに良く似ている。シャウト気味に歌う所や巻き舌気味に歌う所等は最早鳥肌ものだ。勿論小手先だけでフレディの物真似をしている様なレベルではない。非常に力強く自然であり、フレディに影響を受けたにせよ、既にこれが彼自身のヴォーカルスタイルと言っていいレベルに完成しており、それもフレディ本人に勝るとも劣らない素晴らしいヴォーカルだ。
曲自体はことさらクィーンに似ている訳ではないが、序盤、中盤、終盤とアレンジが変化していく展開とか、コーラスの美しさにクィーンに通じるものを見る事が出来、全体としては60年代から現代に続く、ブリティッシュロックの伝統を引き継ぐ様な、60〜70年代のブリティッシュロックを彷彿とさせるものがありながら、現代的なテイストも感じさせるものなっている。
特に終盤のコーラスで感動的に盛り上がる部分は、何故か胸を締め付けられる様な切なさを感じさせるもので、単にカッコ良いだけではない、奥深さを感じさせる作品性の高い楽曲だ。
『'I Just Know'』も『Kiss This』も個性的で魅力的な楽曲であり、どの曲もタイプが異なる曲でありながら、どの曲にも既にストラッツらしさがしっかりとあるのが素晴らしい。
これらタイプの違う曲をルークはそれぞれ見事に歌いこなしており、時にはミック・ジャガーを思わされたり、時にはスティーブン・タイラーを連想させられたりする。やはり、過去の優れたロックバンド、ロックヴォーカリスト達からの影響を受けている事を感じさせられるが、それを見事に消化して既にルークらしさ、ルークの個性というものが確立されていると思う。
ルークには、フレディ・マーキュリー、ミック・ジャガー、スティーブン・タイラーといったロック界の頂点に君臨するロックヴォーカリスト達に匹敵する実力とカリスマ性、スター性が備わっていると感じる。必ずやいつか彼等と肩を並べる様なメジャーな存在となるに違いないと思う。
そして、ルークだけでなく、ストラッツは楽曲もサウンドも素晴らしく、ストラッツというバンド自体もビートルズ、クィーンに続く様なイギリスを代表する様なメジャーなバンドに成長するのではないかと思う。
ストラッツというバンドは、どの様に生まれたバンドなのか?僕の興味は益々募って行った。
ストラッツのFacebookページの基本データには、影響を受けたものとして「Beatles, Stones, Kaiser Chiefs, Oasis, Queen, Led Zep, AC/DC」が挙げられている。やはり幅広い年代のブリティッシュロックの影響を受けたバンドである事は間違いない様だ。
また、このページでは、昨年の記事と思われるルークのインタビューを読む事が出来るが、Chromeの翻訳機能に頼って読んでみた所、ストラッツは5年前にルークとギターのアダムとで始めたという事だ。また、曲もルークとアダムの二人が中心になって作っているらしい。
ルーク自身が最初に好きになったのはマイケル・ジャクソンでその後60年代70年代のロックを聴く様になったらしい。コラボしてみたいミュージシャンは?という質問には「レイ·デイヴィス、ジェフ·リン、ブライアン·メイ、ピーター·ドハーティ、ジミー·クリフ」と答えている。
ここで、クィーンのギタリスト、ブライアン・メイの名前を見て、非常に興奮してしまった。クィーンは現在、オリジナルメンバーはブライアン・メイとドラムのロジャー・テイラーの二人だけとなり、外部のヴォーカリストとコラボする事で活動を続けている。
クィーンの側から見れば、ルーク程フレディに近いヴォーカリストは他には存在しないだろうから、ルークがメジャーになれば、否が応でも目に止まるだろうし、ルークの方もコラボに異存がないとしたら、いつか Queen + Luke Spiller というコラボが実現するのも夢ではないかも知れない。
それは、僕の新しい夢になった。フレディ・マーキュリーという、最も特別なロック・ヴォーカリストを失ったという僕の喪失感を、Queen + Paul Rodgers も、Queen + Adam Lambert も埋める事は出来なかったが、 Queen + Luke Spiller は、フレディ存命当時のQueenの代わりにはならないとしても、その喪失感を多少なりとも薄めてくれる唯一の可能性があるコラボになると思う。今はただの夢に過ぎないが、将来の夢の実現に期待したい。
僕のストラッツ探求の旅は続き、YouTubeで2曲のLuke Spiller 名義の楽曲を発見した。
どちらも現在のストラッツの曲よりポップでアイドル路線的だが、『Sunnyside』のPVにはアダムの姿も映っており、ルークのソロ名義ではあるが、実質的にはルークとアダムによるユニットである事が伺え、ストラッツの前身と考えていいだろう。
おそらくは現在のイギリスではやはりストラッツの様なロックテイストの強いバンドは主流とは言い難く、ルークをソロでアイドルとして売り出す事を模索したのではないかと思う。この辺り、やはり時代遅れのグラムロックバンドと見られていたクィーンが中々デビュー出来なかった頃、ブライアンとロジャーのサポートを受けて、フレディがラリー・ルレックス名義でアイドル路線のソロシングルをリリースしているのと重なる面があり興味深い。
そして、更に検索して、ルークとアダムのユニットは実は思った以上に古くから存在していた事が判明する。 Adam Slack & Luke Spiller 名義でカセットで宅録されたと思われる古い音源が多数見つかったのである。
Adam Slack & Luke Spiller 名義の音源をアップしているYouTubeチャンネル
音源にはルークとアダムの演奏シーンの写真を貼付けた動画でアップされているが、その写真の二人はかなり若く見え、ほとんどの写真は中高生位に見えるが、中には小学生位に見える程幼いものもあり、ルークとアダムが幼なじみで、かなり幼い頃から一緒に音楽を始めたのが伺える。
これはかなり微笑ましい貴重な音源だと思う。個人的にはストロオズの音源を最初に聴いたのはカセットテープだったので、その時の衝撃を思い出し、この音源を大事に取っておいてYouTubeにアップした人の気持ちがよく理解出来る気がした。
僕は当時ストロオズの二人の事を「恐るべき子供たち」だと感じた。若かりし頃のルークとアダムの音源を手に入れた人も同じ様に感じたのではないだろうかと思う。
それに日本でもイギリスでも音楽に目覚めた若いミュージシャンの卵がする事はあまり変わらないと思うと感慨深いものがある。
そして、その中にはストーンズのJumpin' Jack Flashをカヴァーした音源もあった。彼等が幼い頃から60年代のロックを聴き影響を受けていた事が分かる。
そして、ストラッツとして活動する様になっても、彼等はライブでJumpin' Jack Flashをレパートリーにしている様だ。
また、こちらのライブ映像では後半でビートルズのカヴァーで有名なTwist And Shoutもカヴァーしている。
彼等がどういう環境で育ったのかは分からないが、イギリスでは現在でもストーンズやビートルズの人気は高いのだろうと思うし、クィーンについても同様なのだろう。彼等はそれらの60年代70年代のロックも最近の音楽も同列のもとして聴いて育ち、どちらかと言うと最近の音楽よりも60年代70年代のロックを好み、影響を受けて伝統的なブリティッシュロックの伝統を引き継ぎながら、現代的な感覚も兼ね備えた、極めて魅力的で個性的なバンドに成長したのだと思う。
YouTubeのストラッツの公式チャンネルには、彼等が最近のヒット曲をカヴァーしたビデオが何曲かアップされているが、どれもストラッツ流に料理されていて見事なカヴァーだと思う。
また、現在は『Kiss This EP』もリリースされ、EPに収録された『Matter of Time』に加えLordeのカヴァー曲『Royals』のPVも公開されているが、これらも素晴らしい。特に『Royals』のPVはいかにもイギリスのロックバンドらしいPVになっていて、曲もまるで彼等のオリジナル曲の様に聴こえる程だ。
そして、『Kiss This EP』は現在日本のiTunes Storeでも購入可能になっている。
日本ではまだまだ知名度は低いストラッツだが、Twitterのアダムのつぶやきによれば、アルバムリリースはもう間もなくという事だ。
また、アルバムリリースを控えたプロモーションを兼ねていると思われるファンを集めてのPV撮影のイベントが5月7日に企画されている。
本国イギリスでは、今正にブレイクに向けて動き始めているという感じのストラッツだが、個人的には近いうちに世界的にメジャーなバンドになるに違いないと確信している。これからも彼等の動向に注目して行きたい。
*このエントリ投稿後、数少ないストラッツファンから反響があった事から、ストラッツの日本語情報サイトの必要性を感じ、ストラッツの非公式日本語情報blog The Struts News of Japan を開設しました。
もし、ストラッツファンの方がこのエントリをご覧になったのなら、是非アクセスしてみて下さい。
ストラッツ非公式日本語情報blog:The Struts News of Japan]]>
松尾一志さんのPVメイキング映像を公開
http://ko1kubota.exblog.jp/22067672/
2014-03-22T21:05:00+09:00
2014-04-30T23:33:29+09:00
2014-04-30T21:55:03+09:00
ko1kubota
Live Photo
最初にPVを撮ろうと思った時に、ライブパートとロケパートから構成しようと思い、実際のライブでライブパートを撮影させて頂く事になった。
メジャーアーティスストのPVならPV撮影の為にライブハウスを貸し切り、エキストラの観客を入れてPV撮影に専念出来るだろうけど、予算もなくそんな事は不可能なので、実際のライブでの1回だけの演奏をぶっつけ本番で撮るしかなく、何度も撮り直しをする訳にはいかない。(実際にはライブ終了後に、松尾さんの背後から観客を撮ったカットや観客席か後方からのカットを撮影する為に演奏して貰ったけど‥)
1回だけの撮影でカメラが1台だけだったらアングルが1つに限られてしまうので、複数のアングルを撮影する為にはマルチカメラ収録するしか方法がなかった。当初はビデオ撮影の為に最初に購入したLUMIX GH1に加え、Ustream配信の為に撮影時にHDMI出力が可能なLIMIX GH2を買い足していたので、その2台とCanon EOS 7DとCanon PowerShot SX1 ISの4台で撮影しようと考えた。
しかし、7DとSX1は動画撮影の連続撮影可能時間が29分しかない。PVの為だけの撮影なら充分だが、どうせライブを撮影するなら全編撮影したいと思ったし、ライブの途中で録画停止したカメラを再スタートさせる事を考えると、それが必要なカメラが2台もあると、ライブ中に移動する頻度が多くなり観客の迷惑になると考え、せめて1台はバッテリーとメモリーカード容量がある限り無制限に録画出来るLUMIXシリーズのカメラを買い足そうと考え、一眼レフやミラーレス一眼では撮れないものが撮れるので気に入っていた高倍率ズーム機のSX1が少々古くなって来ているので、それをリプレイスしようと思い、やはり高倍率ズーム機のLUMIX FZ150の中古をヤフオクで落札した。
残る1台は7Dを使用し、出来るだけ自分の近くに置いて、録画が停止したら再スタートさせようと考え、カタログでは最大連続撮影時間が29分になっていたが、実際にはどの位連続撮影出来るのか検証したら、5分前後しか連続撮影出来ない事が判明して、大慌てでヤフオクでもう1台入手する事にして、少しでも安く落札する為にLUMIXのGHシリーズ以外のミラーレスモデルで最も早くフルHD動画が撮影出来る様になったモデルが何か調べ、GF2だと分かったので、ギリギリになってGF2を落札し、無制限で動画撮影可能なカメラが4台揃って撮影に臨む事になった。
センサーサイズが小さいFZ150では画質の粗が目立ち難い引きの絵を撮ろうと、観客席の後方正面に設置し、GH1にはマウントアダプターを介し、Nikon AiAFNikkor50mmf/1.4D AF501.4Dを付け、ステージの向かって右に、GF2にやはりマウントアダプターを使用してCanon EF50mm F1.4 USMを付けてステージの向かって左に設置し、GH2にはLUMIX G VARIO HD 14-140mm/4.0-5.8 ASPH./MEGA O.I.S.を付けて、最前席の自分の席からズーム操作等をしながら撮影した。
そして、撮影後PVの編集に入る前に最初にしたのが、画面を4分割にして4台のカメラの映像を一度にチェック出来るマルチカメラ収録確認バージョンというこの動画を編集する事だった。
複数のカメラで同時に撮影した映像を画面分割で見せる手法は、ライブ映画やライブビデオでもよくある手法だけど、なかなか面白いと思う。
PVでも何処かでこの分割画面の映像を使う事も考えたが、PVではアングルの異なる映像をテンポ良く切り替える事でライブ感を出そうと思ったので、テンポが崩れると思い採用しなかったのだが、勿体ないと思い松尾さんと相談してメイキング映像として公開する事にした。
良かったら、ライブ映像のみのPVのエキストラバージョンと観比べてみて下さい。
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松尾一志さんのPV公開
http://ko1kubota.exblog.jp/21553476/
2014-01-25T23:32:00+09:00
2014-01-26T18:37:36+09:00
2014-01-26T18:37:36+09:00
ko1kubota
Live Photo
一昨年の11月のライブを撮影させた頂いた時、レコーディング中のアルバムに収録予定の曲としてこの曲を聴き、同世代として非常に励まされたと同時に、自虐的でペーソス溢れる詞の内容を徹底的にロックな曲に乗せているのがカッコ良いと思い、この曲のPVを撮りたいと思った。
しかし、体調、体力的な問題からライブ撮影も大幅に制限している状況で果たしてPVの撮影なんて出来るだろうか?という不安もあったし、何よりPVはおろかまともな映像作品を撮った事もない自分にまともなPVなんて撮れるだろうか?という疑問もあった。
1ヶ月程その気持ちを抱えたまま燻らせていたが、とにかく撮れるかどうかチャレンジしてみよう。それでもし駄目だったら、その時は土下座でもしてお詫びするしかないと気持ちを決めて松尾さんに撮影を申し込み、急遽昨年の1月5日のライブでライブシーンを撮影。その後何度か都内でロケハンしてロケ地を探し、3月に豊洲、勝鬨でロケシーンを撮影した。
歌詞の内容的にはユーモアやペーソスのある曲だが、最初からとにかくカッコ良いPVを撮りたいと思っていた。それは素人が下手にコメディに手を出すとろくな事にはならないという思いもあったのだが、やはり何と言っても僕がこの曲をカッコ良いと思った気持ちをそのまま出したかったからだ。
自分の中ではPVと言えば、80年代から90年代にかけて、MTV等で観ていたPVのイメージが強いので、今風のPVではなくアナクロで古臭く感じられるかもしれないが、そのイメージで撮影した。
ライブ撮影はともかく、ロケでの撮影は経験がなく、試行錯誤の連続で寒い中松尾さんにもかなり多くのテイクに付き合ってもらいご迷惑をおかけしたが、何とか初めて撮影したPVとしては及第点のものが出来たのではないかと思う。
ただ、その一方で先行して撮影したライブシーンを先行して編集作業している内に、そのライブシーンの松尾さんがかなりカッコ良いので、一部しか使用しないのは勿体なく思えて来て、ライブシーンだけでもかなりカッコ良いPVになるのではないか?と思えて来たので、松尾さんと相談して、エクストラバージョンとしてライブシーンのみのバージョンも作る事にした。
また、1曲だけでは寂しいのでもう1曲くらい撮りたいという事になり、それは『おめめこらせば〜』とは趣の違うPVにしたいと思い、アルバム収録曲の中から、やはりライブで聴いて印象に残っていた『せーので捨てちゃえ!』を選択した。
この曲は「文明なんてせーので捨てちゃえば、スッキリして良い」という文明批判というか、文明とか人間としての生き方をもう一度考え直してはどうかという問題提起の歌と僕は解釈した。曲が出来たのは3.11の東日本大震災の前だという事だったが、震災後に発表するとなると震災の事は意識せざるを得ないし、文明を捨てるという事は、その文明を支えている電力を捨てるという事になるだろうから、文明の象徴として原発をバックに歌っているPVにしようと考えた。
3月にレンタカーを借りて福島と茨城にロケハンに行った。福島第一原発は無理でも、せめて福島第二原発を遠方からでも撮れる様な場所はないだろうか?という淡い期待を持ってのロケハンだったが、そんな場所が簡単に見つかる訳もなく、早々に断念して本命のロケ候補地、東海第二原発に向かい、そこをロケ地に決定して6月にロケ撮影を行った。
コンセプト的にラストカットを青空で終えたかったので、晴れの日にロケを行わないと意味がないという事で、天気予報と僕と松尾さんのスケジュールを照らし合わせながら、ロケ予定日を検討していたが、なかなかそれが上手く一致しないまま梅雨入り宣言が出てしまい、これは梅雨明けまでロケは延期だと思っていた所、梅雨入りしたとは思えない天気が続き、僕と松尾さんの休みの合う日の予報も晴れだった為、急遽6月初旬にロケを敢行して、非常に気持ち良い快晴の元で撮影が終了した。
東海第二原発のある海岸は海も砂浜も非常に綺麗で、素晴らしいロケーションだった。
ところが、今度はその美しいロケーションで撮影した映像を編集していると、ラストカットの青空のみカラーでほぼ全編モノクロというコンセプトが勿体なく思えて来た。
結局、これも松尾さんと相談して、折角なのでオールカラーのエクストラバージョンも作る事になった。最終的に2曲とも公式バージョンとエクストラバージョンの2バージョンづつ製作し、同時公開する事になった。
この2曲が収録された松尾一志さんの4thアルバム『おめめこらせば〜50歳になった僕より〜』はアマゾンの通販で発売中です。
また、iTunes StoreやアマゾンMP3ストアでデータ配信も行っています。今の所データ配信はシングル2曲のみですが、いずれアルバムも配信されると思います。
松尾一志公式サイト:http://www1.m.jcnnet.jp/rocking_pine99/
4thアルバム 『おめめこらせば~50歳になった僕より~』発売中
CD販売 Amazon http://goo.gl/QVzfYy
DETA配信 iTunes Store http://goo.gl/HbMfoH
AmazonMP3ストア http://goo.gl/6OucJ8]]>
松尾一志 クリスマスライブ@千葉 瑞庵II
http://ko1kubota.exblog.jp/21390737/
2013-12-22T23:43:00+09:00
2014-01-05T22:46:32+09:00
2014-01-05T01:14:10+09:00
ko1kubota
Live Photo
ちょうど昨年の11月に数年降りに松尾さんのライブを撮影させて頂いたのだが、その時現在レコーディング中という4枚目のアルバムに収録予定の新曲として「おめめこらせば〜人生は50歳から〜」を聴かせて頂き、その曲のプロモーションビデオを撮りたいと思い、松尾さんに提案して、忙しくてこのブログに書く事は出来なかったのだが、今年の1月のライブでライブシーンを撮影、1月から3月にかけて都内でロケハンしてロケ地を探し、3月にロケシーンを撮影。またもう1曲「せーので捨てちゃえ!」のPVも撮らせて頂く事になったので、やはり3月に福島と茨城でロケハンし、ロケ地を茨城に決定し、6月に茨城にロケして撮影していた。
当初は松尾さんのCD発売が今年の春の予定という事だったので、それに合わせてPVも公開する予定で編集作業を進めていたのだが、結局レコーディングが延びに延びて今回のライブでCDが発売される事になり、通販の準備が出来ていないのでPVの公開はまだ先になるのだが、ライブ会場でPVもお披露目させて頂く事になった。
PVのお披露目は概ね好評でホッとした。本来PVの目的は松尾さんを知らない人に松尾さんのCDを買う気になってもらう為のものであり、ファンの人達に好評だとしても喜んではいられないとは思うのだが、それでも嬉しかった。ファンの人がPVを表示しているモニターを写メに撮っているのを見て、何もそんなものを撮らなくても‥と思ったのだが、写メに撮りたいと思って貰える様なPVが撮れたという事なんだろうと思うと、正直嬉しかった。
また、今回のライブでは、ライブ撮影を始めた頃からの念願だった、シャッター音のしないデジタル一眼であるLUMIX G5を入手したので、久々にビデオだけでなくスチールの撮影も行った。
本当は同じ電子シャッターモードのあるLUMIX GH3が欲しかったのだが、年末に向けて色々と買い物をして散財してしまったのと、GH3を買ってしまうと今回の様にビデオも写真も撮る場合、GH3をビデオ撮影に使いたいと思ってしまいそうなので、写真専用と割り切るならG5の方が良いだろうと思ったのだ。
ただ、G5の方が今回ビデオ撮影に使用したGH2より新しいモデルという事もあり、ビデオ撮影機能でもGH2より優秀ではあるのだが‥
今回はビデオ撮影用のGH2には純正の14-140mm F4.0-5.8を使用し、写真用のG5にはマウントアダプターを使用してオリンパスのフォーサーズレンズ、14-54mm F2.8-3.5と同じくシグマのフォーサーズレンズ、50mm F1.4、そしてAFの比較と電動ズームの試用を兼ねて純正の12-42mm F3.5-5.6を使用した。
その結果、マウントアダプター経由のフォーサーズレンズ2本も純正レンズに比べて、AFの速度、精度共に遜色無い事を確認出来たし、最近はGH2と14-140mmの組み合わせで撮影したビデオから、静止画を書き出して、このブログで使用する事も多かったが、やはりレンズのF値が明るい分、背景のボケが大きいより写真らしい写真が撮れる事を改めて再確認した。
ビデオ撮影の場合、レンズ交換が難しい事もあって、10倍ズームの利便性に頼ってしまいがちなのだが、今後はビデオ撮影でもより明るいレンズの使用にもチャレンジしたいと思う。
今回のライブは今回のライブで発売となった4枚目のアルバムの曲を中心に、松尾さん自身の楽曲解説付でのライブとなった。
前作のサードアルバムから、8年越しのニューアルバムとなったという事だが、その8年間の松尾さんの様々な思いが込められた重みのある曲ばかりの非常に力のこもったアルバムになっていると思う。
思えば僕が松尾さんと知り合ったのは、ちょうど9年前であり、翌年に初めて行ったライブがそのサードアルバムのレコ発ライブだったと思う。その後、松尾さんと会っていない期間もあったが、それからの8年間が決して順風満帆なものではなかった事は、何となく察する事が出来る。
そのサードアルバムには「人生は40歳から」という曲が収録されていたが、それは40歳を迎えた松尾さん自身がまだまだこれからも頑張って行こうという決意を現した曲だったと思う。
しかし、インディーズのソロシンガーが、40歳を超えて音楽活動を続けて行く事は決して容易な事ではないだろう。その10年間の頑張りと苦労が「おめめこらせば〜人生は50歳から〜」に込められていると思うし、何よりその決意通り音楽活動を続けて来て、この曲のリリースに至ったこと自体が素晴らしい事だと思う。
だからこそ、僕はこの曲のPVを撮りたいと思ったのだし、このPVが少しでも松尾さんのニューアルバムのセールスに貢献出来ればいいと願わずにはいられない。
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三日月バビロン『over the citylight,under the MOON ~月あかりの空庭~』
http://ko1kubota.exblog.jp/19000885/
2012-12-09T22:23:00+09:00
2012-12-14T14:36:30+09:00
2012-12-14T14:36:30+09:00
ko1kubota
Artist
前作『ヒューリスティック・ポケット ~懐カシイ夜天ノ果テ~』のパンフレットでは次回公演から過去作品の連続再演企画がスタートするという案内が掲載されていたが、予定が変更された様で実際には新作公演となった。
僕は前作に関して勝手に今までの三日月作品に決着を付けた様な作品と捉えており、だから、その作品で一区切り付けて過去作品の再演企画シリーズに入るというのは納得出来る話だと感じていた。
現在、三日月バビロンは常連の客演陣も含めて、これまでで最もキャスト陣が充実していると感じているし、 作・演出の櫻木バビさんも、近作では非常に作品の幅を広げて高い普遍性を獲得したと思っている。
つまり、作家、劇団共に大きく成長し充実した状態にあると言えると思う。その充実した状態で、過去作品を単なる再演ではなく、現在のレベルの高いキャスト、作・演出家として当時より大きく成長した櫻木バビさんの手で、大きくリメイクしてより完成度の高い作品として生まれ変わったものを観せてくれるのではないかと期待していたのである。
どんな事情かは分からないが、その再演企画を延期してその前にもう1作、新作を作るとすれば、その新作は一体どんなものになるのか?それが今回の公演の最大の興味だったと言っていいだろう。
櫻木バビさんの事だから、予定していた方向に舵 を取る事まで延期はしないだろうというのが僕の予想だった。おそらくは再演企画で予定していた方向性を新作で先取りした様な内容になるのではないか?と思ったのだが、その予想は外れていなかったと思う。
近作、特に『トロイメライ』以後の作品では、どちらかというと多くの人が共感出来る様な内容という事を意識した作品が多かったと思う。しかし、今作では一転して児童虐待という多くの人にとって共感する事は難しいと思われる内容を扱っている。そのシビアで重い内容は、三日月の初期作品群を彷彿とさせるものである。
しかし、それと同時に全体の方向性というか、雰囲気、あるいは語り口といった様なものは近作の方向性を踏襲したもの、というよりそれを更に押し進めたものである と言える。櫻木さんはここ何作かで獲得した普遍性を武器に一般的には共感され難い、あるいはタブー視されかねない内容の作品をより多くの人に理解して貰える様な形で提示する事に挑んでいるのだと思う。
ロック・シンガーの佐野元春がNHK-Eテレでホストを務めている番組『ザ・ソングライターズ』にシンガーソングライターの星野 源が出演した時に彼が「共感なんかされたくない」と言い放ち、「共感よりもっといいもの」を目指していると語った時、僕は凄く感銘を受けた。佐野元春はそれを「リスナーの想像力に期待したいという事ですね。」と受け止めた。
櫻木さんが目指しているのもそういう事なのではないかと思う。児童虐待というのは重大な問題だが、その問題の解決を難しくしているのは、それが密室で起こる事であり第三者の介入が難しい事でありながら、当事者による解決がほぼ不可能と言える位難しいという事にある。
だから、どんなに介入が難しいとは言っても、第三者が介入しない事には問題は解決しないのだが、その為には第三者がこの問題の本質を理解する必要があり、特に何故当事者による解決がほぼ不可能 なのかという事を理解しなければ何も始まらない。
これはいじめ問題にも同じ事が言える。よく、いじめに対して「本人が弱いからだ。」「いじめなんかに負けるな。いじめに立ち向かって行け。」という様な事を言う人がいる。それは、そういう事をいう人がいじめを体験した事がなく、いじめというものを知らないからこそ言えるのだと思う。逆にいじめというものがどういうものか理解している人は「辛かったら逃げても良いんだよ。」と言う。
それが1番大事な事なのだ。いじめや虐待を受けている当人は、その事でいわれのない罪悪感を抱きがちで、時としていじめや虐待を受けるのは自分が悪いからだという間違った心理状態に陥る事がある。そして、逃げる事を罪悪と捉えていじめや虐待に 立ち向かった結果、自分自身を追いつめ逃げ場を失って自殺という最悪の事態を招いてしまう事が起きる。
少なくともそういう最悪な事態を避ける為には、周囲の第三者の正しい理解というものが必要になる。実際にいじめや虐待を受けた経験のある人の絶対数は多いとは言えないだろう。いじめや虐待を受けている人の周辺に、同じ様な経験を持ち共感によってその人の立場を理解出来る人がいる確率は高くはない筈だ。
だから、いじめや虐待を受けた経験のない人にも、その事を理解して、もし、その人の周辺にいじめや虐待を受けている人がいたら、その人が発するSOSに気付き、救いの手を差し伸べる事が可能となる様な環境づくり、問題の周知や対応に関する教育というものが必要だと言える。
本来はそれは行政とか教育が成すべきだと思うが、実際にはそうなっていないのが実情であり、櫻木さんの様な作家やアーティストがその役割を担って行くしかないというのが現状だと言えると思う。
劇中で、その問題の本質を理解出来ない役所職員の発言に対し、主演の美月が琴子に「その人は幸せな人なんだよ。あ、嫌味とかじゃなくて…」と言う。確かに幸せな人には不幸な人の心情には共感出来ないだろう。それがこの問題の難しい所なのだ。
しかし、人間には他人の気持を想像して慮るという能力がある。櫻木さんは、その人間の能力を信じ、そして、三日月の作品を愛し、劇場に足を運んでくれる観客なら、きっと理解してくれると信じてこの作品を作ったのではないかと思う。
そして、その重いテーマを演じ切るには役者にも高い力量が必要とされる。もはや押しも押されもせぬ三日月の看板女優、木原春菜さんも、前作で遂にヒロインの座を手に入れ、今作でも堂々とヒロインを演じた今夢子さんも、難しい役所を見事にこなしていたと思う。
特に木原さんの力量に関しては、最早疑う余地はない所だが、どちらかと言うと元気一杯で無邪気な役が多かった彼女だが、今作でも本質的にはそういうタイプのキャラクターでありながら、今さん演じる鈴を案じて自分を抑えてしっとりと優しく鈴と接するというかなり複雑で難しい役をそうとは感じさせない程こともなげに演じてみせていたと思う。対する今さんも今にも消え入りそうで儚く、でも気丈に振る舞う鈴を見事に演じていたと思う。
この二人が紡ぎ出していた空気感。この二人が作り出していた優しさに満ちた空間が、観客にこのシビアな内容の舞台から目を背けず見届けさせる役割を果たしていたのだと思う。この二人がいたからこそ、作る事が出来た作品だと感じたし、この二人が今の三日月の二本柱として定着した事で櫻木さんも期が熟したと判断して今作を書き上げる事が出来たのではないかと思う。
一方で、シビアな現実サイドに対し、ファンタジーサイドではお馴染みの客演の榎本淳さんと梅原真実さんがベテランならではの息のあった演技で、ともすれば暗くなりがちな重いテーマの舞台にひと時の笑いを提供してくれていたが、そのベテランに混じってシビアな作品に和やかな雰囲気を加える事に一役買っていた由林さんは、以前よりその独特な存在感を発揮してい たが、今作では今まで以上にその個性を発揮して強い印象を残し、最早三日月の舞台に欠かせない存在になったと感じた。
また、その両方の世界を行き来し、橋渡し的な役割を果たしていたのが深澤寿美子さんである。深澤さんは三日月の舞台に初登場した時から、卓越した演技力を見せてくれていたが、回を重ねる毎に重要な役所を任せられる様になり、今作では過去作品では梅原さんやかやべせいこさんが演じていた様な役所を演じている。
深澤さんがそういう役回りを演じる事が出来た事で、梅原さんは中心的な役所から一歩引いて、メインキャストではないものの、梅原さん以外にはちょっと出来ないだろうと思える様な難しい役を演じる事が出来たと言えるのではないかと思う。
その深澤 さんの演技で特に印象に残った演技があった。物語後半、美月と鈴の消息に関する会話をした後去って行く間際、舞台袖でふと空を仰ぎ見た演技だ。櫻木さんの芝居にはその様なさりげない演出が随所に見られるのだが、その仰ぎ見る仕草があまりに自然で演技とは思えない程さりげなかったので、僕はついその視線の先を追ってしまった。勿論、そこにはただ天井桟敷があるだけだ。
その時僕は深澤さんの演技をまるで梅原さんの様だと感じた。そして、そろそろ深澤さんが主役に近い役を演じる所も見てみたいと思った。
もしかすると、その望みは遠からず叶うかもしれない。次回から始まる再演企画シリーズの中で、過去に梅原さんが演じた主役級の役を深澤さんが演じるという事があるのではない かという予感がするのである。
今作は三日月が更なる高みを目指して新たな一歩を踏み出した作品だと言えると思う。そして、次回から始まる再演企画のシリーズに益々期待させられる内容になっていたと思う。その時点では最高だと感じさせられた名作群が、更にスケールアップして生まれ変わり驚かされる事になるに違いないと思う。今からその時が楽しみでならない。]]>
萬人音樂堂Presents レコ発ライブツアー in 沖縄 2012 OKINAWA HARMLESS @ 沖縄 Cafe & Dining Bar THREE
http://ko1kubota.exblog.jp/19551782/
2012-12-01T20:56:00+09:00
2013-03-03T22:55:17+09:00
2013-03-03T19:56:13+09:00
ko1kubota
Live Photo
僕もツアーを追いかけて沖縄市に移動し撮影とUstream配信に臨んだ。屋外ライブだった初日に比べれば問題はないだろうと思っていたが、初日以上のトラブルにアタフタする事になった。
最初のトラブルはEMOBIL LTEのモバイルルーターの接続が安定しない事だった。最初は普通に繋がるのだが、Ustreamのテスト配信をしようとすると切断されてしまう。何度やりなおしても変わらなかったので、バックアップ用に持って来た日本通信の0円SIMを入れたdocomoのモバイルルーターに切り替えるが、今度はiPHoneからはモバイルルーターに接続出来るのに、何故かLiveShell Proからは接続出来ない。
お店に頼んでお店のWiFiに接続させてもらう事になったが、お店のWiFiも接続出来たと思うとEMOBILE LTE同様すぐに接続が切れてしまってやはりテスト配信が出来ない。
結局au回線を使ってiPhone4S単体での配信は可能だったので、GH2の撮影映像を配信するのは諦めてiPhone4S単体で配信する事にした。ただau回線だけは配信可能だったものの、2年前にiPhone3GSで配信した時の映像に比べると画質が悪い(ビットレートが低い)ので、au回線も回線状態が悪かった様だ。理由は分からないけど、電話回線もWiFiも含めて全体的に電波状況が悪かったのか、あるいはUstreamのサーバ側の問題だったのかもしれない。
トラブルはそれだけでは終わらなかった。回線が中々繋がらなかった事で、テスト配信の為にGH2の電源を結構長い時間入れっぱなしにしていた為にバッテリーが想像以上に消耗してしまった。テスト配信とは言っても撮影はしないでスタンバイの状態にしていただけだし、オートパワーオフも機能していたので、そう長時間電源が入っていた訳ではないので、それほどバッテリーを消耗するとは思っていなかったのだが、もめん。のライブが終わった段階でバッテリー残量表示が約半分になっていたので驚いてしまった。
GH2のバッテリーは満充電なら約2時間の連続撮影が可能だ。残り半分でも加藤りまさんのライブが終わるまでは待つだろうと思ったのと、その時点で今日は2ステージある事が分かっていたので、予備バッテリーは2ステージ目に残しておきたかったので、そのまま撮影を続けてバッテリー残量表示がいよいよ危なくなったら予備バッテリーに交換しようと判断して、加藤りまさんのライブを撮り始めたのだが、今度は別の問題でバッテリー残量を気にする気持ちの余裕も無くなってしまった。
GH1を購入して2年間、AFがうまく合わないという事態は昨日が初めてで、それは屋外ライブという特殊な条件だったから今日は大丈夫と思っていたのだが、今日は加藤りまさんの持つギターのヘッドにAFが引っ張られてしまうという事態が発生した。
これまでも、ギターのヘッドは演奏者の顔より手前にあるので、AFはそちらに合い易いのではないか?という懸念は持っていたのだが、過去のライブではたまたまポジショニングが良かったのかそういう事は発生しなかったのだが、今日はポジショニングが微妙に良くなかった様でどうしてもギターのヘッドにAFが合ってしまい、昨日と同様フレーミングで何とか乗り切ろうとしたのだが無理だった。
そこで、次のMCの間に三脚の位置をずらしてポジショニングを改善するしかないと判断したのは、もうラスト曲前になってしまっていた。そしてそれを決断した時、確認している余裕がなかったバッテリー残量が点滅を始める程消耗していた事に気が付いた。とっさの事に僕は三脚を移動してポジショニングを改善する事を優先し、それでMCの時間を使ってしまい、バッテリーを交換する事は出来なかった。後1曲分だけバッテリーが持ってくれる事を願いながら撮影を続けたがその願いもむなしく、ラスト曲の演奏が終わる前にファインダーはブラックアウトしてしまった。
つくづく僕はストロオズ関係の撮影では未熟さを露呈して苦労する運命にある様だ。
沖縄まで駆けつけた特別な思いの撮影だけに、何故この2年間一度も経験した事が無い様な事態がこの2日間にこうも次々と襲って来るのか?とかなりガッカリしてしまったが、唯一の救いは今日のライブは2ステージあり、リカバリーが可能だった事だ。
撮影の方ではトラブルに追われて残念な思いもあったが、ライブ自体は非常にリラックスした雰囲気の良い店内でたっぷり2ステージ味わえるという申し分のないものだったと思う。僕も2ステージ目以降はトラブルも起こらず、撮影しながらリラックスして存分にライブを楽しむ事が出来た。
特にもめん。の音楽はこういうゆったりとした空間でまったりと聴くのに良く合う。
僕は今まで、もめん。の自称するねむい系というコンセプトが良く理解出来なかったのだが、今回のライブと今回のライブに合わせてリリースされたファーストアルバム「ずずズ。」の楽曲を聴いて良く理解出来た様な気がした。
例えば「おかえり」は、"おかえり"と"おやすみ"と"おはよう"という挨拶の言葉を繰り返すというシンプルな曲だけど、こういう挨拶を交わせる家族がいる事の幸福を表現した歌だと思う。そして、家に帰って眠って起きるまでの歌であり、大部分は眠っている訳である。家とは眠る為に帰る場所であり、家族とは一緒に眠る間柄の人を指すという事だろう。
親にとっては安らかに眠る子供の寝顔ほど幸福感を感じるものはないだろうし、子供にとっては信頼し切っている親に見守られながら眠りに落ちて行く時ほど、心安らかで満ち足りている瞬間もないだろう。
今のしょーしょーさんにとって、音楽の主要テーマは家族、特に子供への愛情であり、しょーしょーさんにとって、それは「眠り」と強く結びついているのだと思う。
僕はかつてジョン・レノンのCD-BOXに収録された宅録版の「Beautiful Boy」を聴いて、そこに音楽の原点、芸術の原点を感じた事がある。それは我が子の為に作られた子守唄である。勿論特に子守唄に限る訳ではないが、芸術というものは、その人の人生や生活に密接なものであるべきではないかと思う。
かつてストロオズを評する言葉として良く耳にしたのが「和製レノン・マッカートニー」という言葉だが、そのストロオズが解散してしょーしょーさんが新しく結成したユニットのもめん。の楽曲に、やはりジョン・レノンがビートルズ解散後にオノ・ヨーコとのユニットで発表した楽曲に通じるものを感じたのは興味深いシンクロニシティだと思う。
そんなもめん。のねむい系楽曲の中で、今回最も強く印象に残った曲が「ねむいうた」というそのものズバリのタイトルの曲だ。この曲は多分、子供と話したい事があって帰ってきたのだが、子供はもう待ちくたびれて眠ってしまい、その寝顔を見ながら「明日の朝話そうね」と語りかけているという内容の曲だと思う。
この曲には幸福感と同時に凄く切なさを感じる。その切なさは、子供と話すのを楽しみに帰ってきたのに子供がもう眠ってしまって話せなかったという寂しさであるだろうけど、おそらくはその日一日の事だけではなく、出来れば24時間常に一緒に子供と過ごしたいのに、それが出来ない事への切ない気持ちが現れているのではないかと思う。
僕はこの曲のこの切なさが胸に迫って来て忘れられないのだが、僕自身は結婚もしていないし当然子供もいないので、実際にはこの曲に共感する事は出来ない筈だ。だから僕がこの曲の切なさに惹き付けられるのは想像力と、親からの視点ではなく子供だった頃の記憶による視点から来ているのだろうと思う。僕が子供だったのは遠い過去の事であり、その頃の記憶を辿るのは強い郷愁を伴う。それが僕がこの曲を聴く時に感じる切なさに繋がっているだろう。
この様に本当に優れた曲というのは、共感を越えて感動を与えるものなのだと思う。
また、僕のその感情を更に高める役割を果たしているのが、Liveバージョンのみに加えられている、わんわんさんのシンセパートである。楽曲の内容が非常にシンプルでピュアなものであるだけに、CDバージョンののアコースティックギターとトイピアノだけのシンプルなアレンジも、この楽曲の良さを際立たせているとも感じられ、あるいはその方がベストなのかもしれないという思いもあるが、一度聴いてしまうと、もうわんわんさんのシンセパートを忘れる事が出来ない。
それだけ、わんわんさんのシンセパートは、僕がこの楽曲を聴いた時の郷愁を伴う切ない感情と強くシンクロしている様に感じられる。僕はわんわんさんのパーソナリティを知らないので、わんわんさんが未婚か既婚かも知らないのだが、もしわんわんさんが僕と全く同じ立場ではないとしても、同じ男性であるので、母親の気持ちを歌ったこの歌に完全に共感は出来ないだろうし、わんわんさんがこの曲に抱いた思いは、この曲の作者であるしょーしょーさんより、僕の方に近いのではないかと思う。
それが、僕がわんわんさんのシンセパートの加わったLiveバージョンにより強く惹き付けられてしまう理由ではないかと思うし、そのシンセアレンジは本当に素晴らしく、改めて、もめん。というユニットは素晴らしいという思いを強くした。
一方の加藤りまさんの曲で最も印象に残った曲と言えば「Violence Teacher」だ。英語詞をちゃんと理解してはいないが、タイトル通り暴力教師の事を歌った歌だと思うが、勿論、暴力的な曲という訳ではない。
むしろ穏やかで優しい曲調であり、特徴的なハミングの部分が強く印象に残って忘れられない。
加藤りまさんとしょーしょーさんは、かなりタイプの異なるアーティストだが、ストロオズ時代に共通すると感じていた事に、アンニュイな雰囲気とシニカルな視点を感じさせるという点がある。
アンニュイな雰囲気と言うのは今でも共通しているが、シニカルな視点という事に関しては、最近のしょーしょーさんの楽曲からは、あまり強くは感じられない。(多分根底には今も持ち続けているのではないかと思うが・・)
その二つの特徴を今も変わらず維持しているという点も、僕が加藤りまさんの楽曲にストオロズ時代から不変のスタンスを感じる理由のひとつだと思う。
この曲は暴力をふるう様な教師を糾弾するというよりは、何故教師という立場を選んだ人間がそのような事をするのか疑問を投げかけると共に、その様な教師が存在する事を嘆き、哀れんでいる様にすら感じられる。
その様な思いが、あのハミングに込められている様に感じられ、あのハミングが心に残り、耳から離れなくなった。
ストロオズが持っていたシニカルさというのは、ストロオズの大きな魅力だったと思う。そこに当時10代らしからぬ老成さを感じたという人もいるかもしれないが、僕としては10代らしい真っ直ぐでピュアな視点で世の中を見ているのだと感じていた。ただ、その表現のし方がある種諦めの様な、達観した様なものだったのが特徴的だったと言えると思う。
そして、加藤りまさんは10代の頃から変わらぬ視点で今も世の中を見ているのだと思う。その象徴がこの曲のハミングだと感じ、最も加藤りまさんらしさが出ている曲だと感じた。
そして、今日のライブではサプライズが用意されていた。加藤りまさんともめん。が加藤りまさんの曲「Apple」で共演したのだ。実は密かに今回のツアーでは1曲くらい共演が聴けるのでは?と期待していたのだが、初日のライブでは共演はなく諦めていたのだが、その分同じステージに並んで立ち一緒に歌うしょーしょーさんと加藤りまさんの姿を見られたのは感慨ひとしおだった。
しょーしょーさんと加藤りまさんの共演を聴くのは10数年降りという事になるが、こうして一緒に並んで歌っている姿を見、演奏を聴くと、あの頃と何も変わっていないと感じた。「Apple」は加藤りまさんのソロアルバムに収録されている曲だが、曲が出来たのはストオロズ時代で解散前のストロオズのライブで披露した事もあるのだそう。おそらく僕もライブで聴いた事がある筈で、そう言われると聴き覚えがある様にも感じられ、この曲を二人で歌っているがとてもしっくりとしていて、あの頃と何も変わらないと感じたのもそのせいかもしれない。
先ほど、最近のしょーしょーさんの曲からは、ストロオズ時代のシニカルさが余り感じられないと書いたが、それはきっと歌詞にそういうニュアンスが現れていないからであり、しょーしょーさんの持つ批判精神の様なものは今も健在で、きっと言葉にならない思いは曲の根底には込められているのではないかと思う。
ストロオズと加藤りまさんの楽曲のほとんどが、英語詞であるのは、おそらくそういう批判的内容の歌詞を日本語でストレートに表現する事に対するためらいがあるのではないかと思う。最近のしょーしょーさんの歌には日本語の歌詞のものが多いが、やはり日本語歌詞で批判的な内容の歌を歌うのにはためらいがあり、そういう内容の思いは言葉にせず行間に込める様なアプローチをしているのではないかと思う。また、逆に日本語でストレートに表現したい思いの方が勝っているという事もあるのではないかと思う。
おそらく、しょーしょーさんも基本的な部分はストロオズ時代と大きくは変わっていないだと思う。もめん。の事をねむい系という一般的にはネガティブに捉えられかねない言葉を使って表現しているのも、しょーしょーさんらしい、批判精神、反骨精神の様なものの現れではないかと感じる。
多分、音楽性も音楽に対するスタンスやアプローチも異なる二人がストロオズを結成したのも、10数年降りに共演してもそのブランクを感じさせない程自然に見えるのも、その様な世の中に対する視線やスタンスに共通する所があったからではないかと思う。
その二人が、今もお互いにリスペクトし合っているであろう事、そして二人で並んで歌い出せば、今でも紛れもないストロオズそのものの演奏が聴けるという事。それをこの目で耳で、見届ける事が出来て本当に良かったと思う。
そして、かつてストロオズのライブでサポートとしてドラムを担当していた加藤りまさんのお兄さんの代わりに、今回のステージではわんわんさんがピアニカでサポートしていた事も興味深い符号の様に感じた。
個人的にはトラブルやミスもあったけど、色々な意味で初心に還る事が出来たし、沖縄まで来て本当に良かったと感じるライブツアーだった。
ねむいうた/もめん。
もめん。ライブ動画リスト:http://www.youtube.com/playlist?list=PL64AD82F9153C5968
萬人音樂堂公式サイト:http://umanchuongakudo.web.fc2.com/umanchuongendo.html
加藤りま公式blog:http://rimakato.tumblr.com]]>
萬人音樂堂Presents レコ発ライブツアー in 沖縄 2012 OKINAWA HARMLESS @ 那覇 さんご座キッチン
http://ko1kubota.exblog.jp/19293257/
2012-11-30T23:22:00+09:00
2013-02-20T20:03:40+09:00
2013-02-19T00:55:49+09:00
ko1kubota
Live Photo
ストロオズは僕がライブ撮影を始めるきっかけになったバンドだ。当時ひょんな事でしょーしょーさんと知り合い、購入したストロオズのカセットテープを聴いて衝撃を受けて、パソコン通信時代からユーザーだったニフティサーブがインターネット接続サービスを開始した事で提供されたHPスペースを利用してSTRROWS Supporter's website をオープンし、そのHPで使う写真を撮る為に、ストロオズのファーストライブを撮影したのが初めてのライブ撮影だった。
それまでは、写真やカメラに関しては特に詳しくもなく、写真の基礎も分かっていなかった僕にとってライブ撮影は非常に難しいもので、必死に独学で写真の勉強をしながら毎回ストロオズのライブに通ったが、結局満足のいく写真は撮れないままストロオズは解散してしまった。
ストロオズのライブ撮影を始めた当初は、ストロオズのライブ撮影を続ける事が出来なくなったら、ライブ撮影自体を辞めるつもりでいたが、何よりも音楽が好きでありながら、自分自身は音痴で手先も不器用であり、趣味のレベルでいいから音楽をやりたいという夢が叶わなかった僕に取って、ライブ撮影はその満たされぬ思いを埋めるものになってしまい、ストロオズ解散後も続ける事になった。
ストロオズ解散後まもなく、デジタル一眼レフの一般ユーザーへの普及が始まり、僕もいち早くデジタル一眼レフへと移行した。ファイルムに比べてセンサーの高感度化が進んだ事で、ライブ撮影は技術的にはさほど難しいジャンルでは無くなった。ただ、技術的側面をクリアした先に写真の良し悪しはあるので、良いライブ写真を撮る事が簡単になったという事ではない。しかし、ライブ撮影をする際に、暗さや高感度ノイズ、手ブレ、被写体ブレといった問題に悩まされる事なく、純粋に撮影に集中出来る様になった事は非常に有難い事だった。
ストロオズ時代は写真の良し悪しの前に技術的にうまく撮れない、納得出来ない出来の写真が多かった事もあり、デジタル一眼でもう一度撮りたいという思いが拭えなかったが、その思いの半分は2年前ににやはりしょーしょーさんが9年振りに音楽活動を再開した際沖縄まで撮影に行った事で満たされる事になった。
そして、今回はいよいよしょーしょーさんと加藤りまさんが、別々とは言え同じステージに立ってライブツアーをする事になり、その記念すべき瞬間を見届け、撮影する為に再び沖縄に向かう事になった。
2年前のもめん。のファーストライブでは、デジタル一眼レフによるスチール撮影だけでなく、ムービー一眼の異名を持つLUMIX GH1でフルHD動画の撮影と、iPhone単体によるUstream配信も行った。今回は最近の自分の目標としてもう少しビデオ撮影に本腰を入れて取り組んでみようと思っている事と、デジタル一眼の大判センサーで撮影したビデオから静止画を切り出せば、解像度こそ200万画素相当だが充分写真として通用する画質の静止画が得られる事が分かったので、スチール用のカメラは用意せずビデオ撮影に専念し、そのカメラで撮影した映像をそのまま同時にUstream配信したいと考えて、新たに撮影時にHDMIのスルー出力を得られるLUMIX GH2とPCレスの動画配信機材、Cerevo LiveSfell Proを購入して挑む事にした。
しかし、那覇市のさんご座キッチンのオープンカフェで行われた初日のライブでは、ライトアップされた背後の看板が非常に明るいのに対し、演奏者に当たる照明が弱く、どうしても背後の看板にフォーカスが引っ張られるという難しい条件で、AFがなかなか合わず、写真撮影初心者としてストロオズを撮影していた当時を彷彿とさせられる苦労を、今度はビデオ撮影初心者として味わうというほろ苦い経験をする事になった。
本来、被写界深度の狭いデジタル一眼でのビデオ撮影はマニュアルフォーカスが当然と言われる事も多い。2年前の撮影では本当にAFで大丈夫だろうか?という不安を抱え、AFが駄目ならMFに切り替える事も想定して撮影に臨んだのだが、その心配をよそにAFは常に完璧に機能し、その後の2年間もそれほどビデオ撮影の機会は多くなかったが、限られた撮影ではいつもAFで全く問題なかったので、すっかりLUMIXのAF性能を信頼し、安心し切っていたので、最後までMFに切り替えるという決断が出来ずに、AFの効き易い様にアングルやズームで調整しようと悪足掻きをしているうちに、結局うまくいかないまま、もめん。のライブは終了してしまった。
続く加藤りまさんのライブでは、加藤さんのソロの為、メインの被写体が中央にある事もあって条件がよくなりAFでほぼ問題なく撮影出来たのだが、良くも悪くも初心に帰る事が出来たライブになったと言える。
ライブ自体はさんご座キッチンのオープンカフェの雰囲気が凄く良い事もあり、もめん。のライブも加藤りまさんのライブも非常に雰囲気のある良いライブだったと思う。
特に加藤りまさんのライブでは、前述したのとは別の良い意味で、ストロオズのライブ撮影をしていた頃にタイムスリップした様な感覚に包まれて、感慨深いライブとなった。
僕のiPhoneにはストロオズのCDからリッピングしたデータが入っており、今でも定期的に聴いているので、僕に取ってストロオズの楽曲は今でもオンタイムの楽曲であり、聴いていて一度も懐かしいとは感じた事はない。
でも、それはCD音源の話であって、ストロオズのライブ演奏はもう10数年聴いていない訳である。それが加藤さんの演奏をライブで聴いているうちに、ストロオズのライブ会場でストロオズの演奏を聴いていた当時の空気感の様なものが蘇って来て、当時の感覚が懐かしく思い出されて来たのだ。
これは、もめん。のライブでは感じなかった感覚だ。それも、もめん。はストロオズ時代のナンバー「CHOCOLATE」をセルフ・カヴァーしているのにも関わらずだ。
僕はそれは加藤りまさんの揺るぎなさが原因なのだと感じた。そして、ストロオズというバンドがなんだったのか、そして何故解散してしまったのか理解出来た様な気がした。
加藤りまさんには、きっと目指すべき理想の音楽というのが頑として有り、今も昔もその理想は少しもブレていないのではないかと思う。今も昔のその理想に向かってまるで求道者の様に音楽に取り組んでいるのだと思う。
だから、加藤りまさんの音楽に対するスタンスや、曲作りに対する考え方はストロオズ時代もソロでも変わっていないのだと思う。その揺るぎなさが、僕の感覚をストロオズのライブを聴いていた当時にタイムスリップさせたのではないかと思う。
一方のしょーしょーさんは、ストロオズ時代の楽曲と現在の楽曲では、核にあるしょーしょーさんらしさ、個性といったものは共通でも、表面的には大きく変わっていると思う。
また、現在でももめん。での活動の他にソロの活動も行っている様に、バンドやユニットでの活動とソロの活動ではスタンスというか取り組み方にも違いがあるのではないかと思う。
多分、しょーしょーさんはストロオズ時代、ストロオズのメンバーである事、加藤りまさんの相方である事を強く意識していたのではないかと思う。僕の勝手な想像だが、しょーしょーさんはストロオズのメンバーである事、加藤りまさんの相方である事を誇りに感じ、それに相応しくある事を自分に課していたのではないかと思う。しょーしょーさんの素晴らしい所は、それを意識したとしても加藤さんの個性には寄って行かなかった事である。
むしろ、加藤りまさんの相方として相応しくある為には、自分の個性を最大限に発揮する事、自分自身が加藤りまさんに負けない存在になる事だと思っていたのではないかと思う。
そして、その事によってストロオズは二つの大きな個性が並び立つ類希なバンドになっていたのではないだろうか。
加藤りまさんの方も、勿論相方のしょーしょーさんを意識していなかったという事はないだろうし、バンドとして活動するからにはソロとは違う意識を持っていたに違いないとは思う。しかし、それでも自分で曲を作るにあたっては、求道者の様に自分の理想の音楽に向かって進んで行くという事に関してはストロオズ時代もソロである現在も変わっていないのではないかと思う。
また、加藤りまさんを求道者と表現したのと同じ様にしょーしょーさんを表現しようとすれば、おそらく冒険者と表現するのがピッタリなのではないかと思う。
しょーしょーさんの曲というのは、ストオロズ時代も今も曲によって方向性が大きく異なる事も特徴のひとつであり、特にバンドやユニットの場合は、この相手とならこんな事が出来るんじゃないか、あんな事に挑戦したら面白いんじゃないかと、思いついた事にどんどんチャレンジして行く様な所もしょーしょーさんの魅力のひとつだと思う。
求道者と冒険者。その全く個性の違う二人が同じバンドに共存し、お互い一歩も譲らず自分の個性を発揮していたのが、ストロオズの大きな魅力だったと思う。でも、その求道者と冒険者が同じ船に乗って一緒に航海を続けるというのは、やはり無理があったのではないかと思う。いつしか二人の進む道が別れて行ってしまったのは必然だったと言えるのではないかと感じた。
当時も僕はその事は何となく感じていて、ストロオズの解散に際しても残念ではあったけど、来るべき時が来たのだと納得していたのだが、今回改めて実感として感じる事が出来たのだと思う。
ストロオズ解散後、二人とも同じ様に長いブランクがあり、同じ様に再び音楽活動を再開した。しょーしょーさんの場合、東京から沖縄に行って結婚し、母親になったりと私生活で大きな環境の変化もあったので、ある意味ブランクが生じてしまったのも当然だと思っていたが、僕としてはナチュラルボーン・シンガーソングライターというイメージを持っていた加藤りまさんにも同様に長いブランクがあったというのは、少々意外に感じられた。
しかし、ナチュラルボーン・シンガーソングライターであり、求道者的に音楽に向き合っていた加藤りまさんだからこそ、純粋に理想の音楽を追い求める様な音楽活動を続けて行くのが様々な困難を伴う事になったのではないかとも想像していたのだが、音楽活動再開後、精力的に数多くのライブをこなしている所を見ると、現在は音楽活動を続けていく良い環境を手に入れたのではないかと思う。おそらくは加藤りまさんの音楽活動をサポートしたり、応援したりしてくれる良い関係者や良い仲間に恵まれたのではないだろうか。
同じ事はしょーしょーさんにも言えると思う。特にしょーしょーさんの場合は、もめん。の相方であるわんわんさんとの出会いは大きかったのだろうと思う。わんわんさんは、かつての相方の加藤りまさんとは異なり、しょーしょーさんの才能や個性を後から支えて、引き出したり延ばしたりしてくれるタイプのパートナーであり、現在のしょーしょーさんが延び延びと音楽活動をしていられるのも、わんわんさんのバックアップが大きいのではないかと感じる。
ストロオズ解散後、共に長いブランクがあり、おそらくは様々な苦労や困難も経験して来たであろう二人が、それぞれ沖縄と金沢という異なる土地で、それぞれに良い出会いや良い環境に恵まれ、音楽活動を再開し、こうして一緒にライブツアーを行う事になったと考えると、感慨深いものがあり、その場に立ち会う事が出来た事を本当に嬉しく思った。
イントロダクション〜CHOCOLATE/もめん。
もめん。ライブ動画リスト:http://www.youtube.com/playlist?list=PL64AD82F9153C5968
萬人音樂堂公式サイト:http://umanchuongakudo.web.fc2.com/umanchuongendo.html
加藤りま公式blog:http://rimakato.tumblr.com
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松尾一志 ワンマンライブ@千葉 瑞庵II
http://ko1kubota.exblog.jp/18971667/
2012-11-16T23:36:00+09:00
2012-12-07T23:09:57+09:00
2012-12-07T22:51:03+09:00
ko1kubota
Live Photo
思えば諸事情でコンスタントにライブ撮影活動を行う事が出来なくなり、この数年は声をかけてもらった時だけは、なるべくお断りせずに撮影しようと考えてはいたが、自分の方から撮影を申し込むという事はほとんどしていなかった。
それでも、舞踏家の荒木志珠さんがちょうど良いペースで声をかけて下さっていたので、年に1、2度は撮影機会があるという状態が続いていたが、その荒木さんが京都に拠点を移した事で、声をかけて下さる人がいなくなり、気が付けばもう1年半撮影していない。
このままでは2012年は1度もライブ撮影をせずに終わると思ったら、1年に1度位は撮影をしたいという思いが湧いて来た。しかし、どなたに声をかけて撮影させて頂くかとなると難しい選択だった。
撮影したいアーティストというと、過去に撮影させて頂いた方々全てをまた撮影させて頂きたいという気持ちがある。でも、現実的にそれは不可能だし、どなたか一人だけ選んでお願いするというのも気が引けるというか、他の方に申し訳ないという気持もある。
結果として松尾さんに連絡を取ってみる事にしたのは、松尾さんとはかつて同じ職場で仕事をしていた事もあり、他の撮影させて頂いた事のあるアーティストの方々より近しい存在なので連絡が取り易かったという事もあるが、年齢も近く、また同じ職場で働いていた事もある位なので、社会的に置かれている立場の様なものも近いという事もあり、今撮影させて頂く対象として一番良いのではないかという思いもあったのだと思う。
僕自身、ライブ撮影活動を続けるのが困難な状況にあるのだが、松尾さんもミュージシャンとしての活動を続けるのは決して楽ではない状況だと思う。しかし、困難な状況の中頑張って活動を続けている松尾さんを頼もしく感じるし、同世代として励まされてもいる。
そのリスペクトの気持を持って撮影したいし、その事で僕自身ももっと頑張ろうという気持ちになれるのではないかという思いがあったのだ。
松尾さんからは快く承諾して頂けて、ライブ撮影とUstream配信させて頂く事が決まった。また、今まで写真とビデオの間で揺れ動いて来たが、当面ビデオに集中しようという考えから、今回はスチール撮影はしない事に決めた。今回掲載している写真は全てビデオデータからの切り出しである。
ちょうど2年前のもめん。のライブ撮影の際に突如思いついて始めたUstream配信だが、その時は急だった事もありiPhone1台での配信だったが、その後もっと高画質な配信を模索していたのだが、同じくもめん。のライブ撮影に合わせて購入したパナソニックのムービー一眼LUMIX GH1に撮影時の映像出力がなかった事で、ビデオ撮影用のカメラとは別にUst配信用のカメラを用意するしかなく、1台のカメラに集中出来ない為、その問題を何とかしたいと考えていたが、撮影自体長い期間行っていなかったので、その問題も棚上げにしたままだった。
今回の配信に向けて。その問題を何とか解決したいと考えていた矢先、パナソニックからGHシリーズの最新モデルのGH3がドイツのフォトキナで発表された。
その内容はプロの映像制作者の要望に応えられるもので、撮影時のHDMIスルー出力を搭載していた為、これこそ理想的なカメラと思い、購入を決意して国内発表を待ったが、結局12月13日と発売日がアナウンスされ、選択肢から外すしかなかった。
結局紆余曲折を経て、撮影時1080iのみHDMI出力されるGH2を購入し、HDMI出力をコンポジットへ変換するコンバータを通してPCレス配信機材のCrevo LiveShellに接続して配信する事にした。
ただ、ライブ直前になってLiveShellを通した音声のレベルがかなり小さい事が分かり、手持ちのマイクの出力が小さ過ぎるのかもしれないと考え、当日になってから松尾さんにマイクの手配を頼む等バタバタしての会場入りになった。
ライブハウスに行ってみると、LTE回線の圏外で3G回線の電波しか入らない事が分かった。ただし、EMOBILEの3Gは実効速度が速いし、事前のテスト配信ではライブをする様な時間帯はUstreamのゴールデンタイムでもあり、ネットワーク負荷というかサーバ負荷が大きく、LTE回線の速度を充分に生かす配信は行えない事は分かっていたので、アップロードが3G回線になってしまうのはそれほど大きな問題ではない。
問題の音声レベルの問題は、リハの模様をテスト配信し、それをiPhoneで視聴した所、流石にライブハウスでの演奏は音が大きいので、ややレベルは低いが充分なレベルで配信される事が分かって一安心した。
だが、テスト配信では問題なく配信出来ていたのが、本番が始まって直ぐ、iPhoneで配信を視聴出来なくなり、LiveShellはiPhoneに対応したコーデックではアップロードされていないので、UstreamのサーバでiPhoneで視聴出来る形式にリアルタイムで変換している為、変換の問題なのかオリジナルの配信自体出来ていないのか判別出来なかったので、ノートPCで確認しようとしたのだが、今度はノートPCがモバイルルータには接続出来るものの、インターネットに繋がらないというトラブルが発生した。
結局実際の配信状況が確認出来ないまま、あたふたしている間に第一部は終わってしまい、休憩を挟んで第二部が始まったが、第二部に入ってからはどうやら安定して配信出来る様になった様で、やっと撮影に集中出来る様になった。
後でアーカイブ(録画)を確認した所、何回か中断したりコマ落ちが発生したりしていたものの、思ったよりは録画されていた。しかし、それが配信も同じ状態だったのか、アップロードと録画までは出来ていても配信(ダウンロード)には支障があったのかは今となっては確認出来ない。
また、音声に関してはレベルは何とか充分だったものの、音質が薄くてスカスカな感じで、ライブの臨場感を充分に伝えているとは言い難いものだった。使用したマイクはこれまでカメラでの収録ではそれほど問題は感じた事がなかったので、LiveShellの音声周りが貧弱なのだと思うのだが、マイクが良くなればその分はマシになるだろうと考えて、新しいマイクを買う事にした。
配信に関しては、その様なトラブルもあったが、ライブは素晴らしいものだった。
松尾さんはベテランらしい円熟した演奏とMCでライブを盛り上げて行く。非常にリラックスした雰囲気で和やかで楽しい時間を過ごす事が出来た。
中でも嬉しかったのは現在4thアルバムを製作中という事で、新曲を沢山聴く事が出来た事だ。音楽活動を続けて行く上で、色々と状況的には厳しいものがあると思うのだが、音楽への情熱は覚めやらず、益々円熟した良い楽曲を作っている事に非常に感銘を受けた。
特に『おめめこらせば』は、素晴らしい曲だと思った。松尾さんには『人生は四十歳から』という曲があるが、新曲では『人生は四十歳からなんて、誰かが歌ってたけど・・』という歌い出しで始まり、10年前の自分をまるで他人の様に扱っているが、実際にその10年間の松尾さんの成長、成熟を感じさせられる曲だったと思う。『おめめこらせば』に比べれば、『人生は四十歳から』は良くも悪くも10歳分の若さ、青臭さが感じられる。
『人生は四十歳から』は四十歳以上の年齢層に向けたストレートな応援歌だったけど、『おめめこらせば』は50歳を前にして、気持に身体が着いて行かなくなった自分自身を自虐的に歌った歌で、ペーソスやユーモアを感じさせる曲であり、同性代以上のリスナーであれば、「あるある。」と自分になぞらえて、思わず泣き笑いしてしまいそうな曲だが、ひとしきり笑った後に、「よし、明日からまた頑張ろう。」と思わされる様な、実質的な応援歌になっていると思う。
その様な懐の深い、奥行きのある曲を書いた松尾さんの成長と成熟を強く感じ、非常に嬉しく感じたのだが、それは言い換えれば、この10年間の松尾さんの音楽活動というものが決して順風満帆なものではなく、困難の多いものだったのではないかとも感じさせられた。
しかし、その試練を乗り越え、その経験が松尾さんの曲を頼もしく、力強いものにしたのではないかと思う。
やはり松尾さんのライブを撮影させて頂く事にして良かったと思った。そして、頑張っている松尾さんの姿に励まされ、僕自身ももっと頑張らなければという気持にさせられたし、おぼろげながら今後やっていきたい事も見えて来た。
今回のライブは僕にとっても転機となるライブになったかもしれない。いずれにしても、1年半以上停滞してたライブ撮影活動の新しい一歩を踏み出した事は確かだし、やはりライブは良い、ライブ撮影は楽しいという事を再確認したライブだった。
Matsuo Kazushi Website:http://www33.ocn.ne.jp/~rocking_pine99/]]>
三日月バビロン『ヒューリスティック・ポケット ~懐カシイ夜天ノ果テ~』
http://ko1kubota.exblog.jp/18487017/
2012-07-27T23:55:00+09:00
2012-09-24T01:03:56+09:00
2012-09-24T01:03:56+09:00
ko1kubota
Artist
その間、ライブ撮影等は全く行っていない。ライブや観劇には全く行っていない訳ではないが、日常生活だけで手一杯な状況で、観劇等に足を運ぶとその影響がかなり尾を引くので、その事をblogに書く余裕がないまま月日が過ぎて行ってしまう。
三日月バビロンの最新公演『ヒューリスティック・ポケット ~懐カシイ夜天ノ果テ~』からも既に2ヶ月近く経過してしまった。このまま、このblogも凍結状態で放置してしまっても構わないと思い始めていたのだが、三日月バビロンのこの公演の感想だけは簡単でも書き残しておこうと考えを改め、筆を取る事にした。
僕が今回の公演を観終えた時、最初に思ったのが「そうだ。こういう作品が観たかったんだ。」という事だ。
思えば僕は初めて三日月バビロンの前身である三日月少年の『コクーヤ~水時計(クレプシドラ)サナトリウム~』を観てから、常にそれを越える作品を観たいと思い続けて来た。
それは『コクーヤ』が物足りなかったとかそういう事ではない。全くその逆で、僕は今でも『コクーヤ』はどんなに粗探しをしても欠点が見つからない完璧な作品だと思っている。だから、最初にそれを観た時の衝撃というのは相当なものがあった。
この作品を越える事等不可能だ。そう思える程の作品だった事で、逆に僕はそれを越える作品を観てみたいと強く思った。何故なら、この時作・演出の櫻木バビさんは、この作品が4作目であり、未来に大きな可能性を残していると思ったからだ。
そして、櫻木バビさんは僕のその期待に応え続け、次々と素晴らしい作品を観せてくれた。いずれも『コクーヤ』と勝るとも劣らない作品ばかりで、中には観方によっては『コクーヤ』を越えたと思える作品も何作もあった。
それでも、僕はその度にもっとその上を、その上を、と思い続けて来た。それは観れば観る程櫻木さんの作品への期待が大きくなるばかりだったのと同時に、櫻木さんの作品が常に作品の先にもまだ物語が続く事を感じさせるものだったという事も大きかったと思う。
櫻木さんは常に作品の最後に観客に向かってひとつのボールを投げる。それは、「この物語で提示された問題に答えを出すのはあなた。そして、その答えを胸に、この物語の続きを生きて行くのはあなた自身。」そういうメッセージを込めたボールだと僕は思っている。
だから、僕はいつも三日月の公演を観る事によって、自分の人生を振り返り、またこの先の人生をどう生きて行くのか考え直す事になる。それは三日月の公演に足を運ぶ観客のほとんどが同じ様に思っているのではないかと思う。
そして、それとは別に僕は櫻木バビさんご自身のその先も気になってしまうのである。櫻木さんご本人はどの様な答えを出したのか?そしてこの先どう生きて行くのか?そしてそれは次回作にどう反映されるのか?その事が常に僕の関心毎のひとつになっている。
だから、今までの作品を越える作品が観たいと言っても、具体的にイメージしている作品像がある訳ではない。むしろ想像を超える作品が観られる事を期待しているので当然だ。
にも関わらず、今回の作品を観て僕は「この作品が観たかった。」と感じた。その理由を明確に説明するのは難しい。三日月作品を観続けて来た僕が、作品を観る度に出して来た答え。そして僕が生きている現在の世相とそれに対する僕の考え。そういったものがないまぜとなって今回の作品に対する共感となり、その様な思いが沸き上がって来たのだと言えるかも知れない。
そう、この作品は今この時代に作られるべき作品。今この時代に見るべき作品。そういう強い思いが僕の中に沸き上がって来たのだと思う。
そして、この作品は一朝一夕に作れる様なものではない。若くして櫻木さんが到達した『コクーヤ』の完璧な出来は正に天才の為せる業としか言い様がないと思う。しかし、才能だけでは作れない作品というのもある。
若く、理想に燃え、溢れる様な情熱を伴う眩しい才能が放つきらめきは、本当に引き付けられる魅力のあるものだと思う。しかし、その才能だけを頼りにして人生経験を重ねず才能を枯渇させて行くアーティストも少なくない。
一方で、才能に溺れず一歩一歩人間的に成長し、その人間的成長を反映させて、才能だけでは辿り着けない高みに到達するアーティストもいる。櫻木さんは正にそういうアーティストであり、1作毎に人間的にもアーティストとしても成長した事を感じさせる作品を観せ続けてくれたからこそ、僕は長く三日月の作品を観続け、その度に更なる成長を期待し続けて来たのだと言える。
今作を語る上で忘れる事が出来ない作品は『トロイメライ~翼の枷~』だろう。僕はその作品を櫻木さんの大きなターニングポイントだったと思っている。それは作家として、また一人の人間として櫻木さんが越えなければならない命題に真っ向から取り組んだ作品だと思う。そして、その作品以後櫻木さんの作品は高い普遍性を獲得し、作品の幅を大きく広げる事になったと思う。中でも『 琥 珀 ノ 宴 』は『トロイメライ』を越えて来たからこそ辿り着けた傑作だと思う。
そして今作『ヒューリスティック・ポケット』は『トロイメライ』と対を成す作品であると言う事が出来ると思う。極めて良く似た内容を扱いながら、その作品から受ける印象は正反対なものだと言える。これはつまり、『トロイメライ』で櫻木さんが投げかけたボールに対する櫻木さんご自身による返球。つまりアンサーソング的作品だと言えるだろう。
そう考えた時、またひとつ櫻木さんが高い次元へとステップを登ったのだという事が分かる。
『トロイメライ』を思い出す時、僕はどうしても綾瀬 雫さんの事を思い出さずにはいられない。あの作品は綾瀬さんの存在無しには成立しなかったと思う。それ位綾瀬さんの演じた役は重要な役だったと思う。そして綾瀬さんはその難しい役を見事に演じきってみせ、僕は彼女の存在は三日月に欠かせないものになったと感じ、彼女の今後に大いに期待した。
しかし、その後彼女は三日月の舞台に立っていない。僕には事情は分からないが、それは三日月にとって大きな損失でないかと感じていた。
でも、今作では今夢子さんが『トロイメライ』で綾瀬さんが演じたいた役と同じ位重要な役を見事に演じてみせてくれた。『トロイメライ』の綾瀬さん同様、今作は今夢子さんの存在無しには成立しなかったのではないかと思う。
今夢子さんは、これまでも三日月の作品でコミカルな脇役を務めて来ていたし、コミカルな役というのは高い実力がないと演じられないものだと思うから、これまでもその実力の高さは充分理解していたのだが、今作で今までのコミカルな役柄とは一転して正統的なヒロインを堂々と演じる姿には感動させられた。
これで綾瀬さんが抜けた穴は完全に埋まったと言えると思う。気が付けば、今の三日月の役者陣は僕が観て来た12年間の歴史の中で最も充実していると言って良い状態になったのではないかと思う。
20年来の親友同士という役をリアリティたっぷりに演じた梅原真実さんとかやべせいこさんは言うに及ばず、もはや押しも押されぬ三日月の看板女優となった木原春菜さんも含め、全員がこの作品に欠かせない役であり、今夢子さんだけでなく、一人でも欠けていたらこの作品は成立しなかっただろうと思う。
この役者陣がいたからこそ、櫻木さんもこの作品を描き切る事が出来たのだと思う。そういう意味ではこの作品も完璧な作品だと言えると思う。
『コクーヤ』を完璧な作品だと言ったのには、その複雑で緻密な構成に驚かされたという面もある。それに比べると今作は非常にシンプルな作品だと言えるが、その分濃密で奥深い作品でもあり、より役者の力量が必要とされる。それを三日月の役者陣は完璧にこなしていたと思う。作・演出の櫻木さんの力だけでは到達出来ない、役者陣の完璧な演技によって成立した完璧な作品だったと言えるのではないだろうか。
12年前の三日月に今作の脚本を渡しても、当時の役者陣に今回の様に完璧に演じる事が出来たかどうか定かではないと思う。そういう意味で今作は12年(いや旗揚げからはもっと長いのだが)の三日月のひとつの集大成と言っても過言ではないと思う。
また、『トロイメライ』を経て作品世界を大きく広げた櫻木さんの作品歴も『トロイメライ』のアンサーソング的作品の今作で一区切りとなり、ターニングポイントを迎えたという事もあると思う。
今作のチラシの告知によれば、次回公演からは旧作の再演シリーズが始まる様だ。『ヒューリスティック・ポイント』で辿り着いた地平を確認した上で、過去の名作の数々を振り返ってみるのは観客としても非常に楽しみであるし、三日月にとっても意義深い事であろう。
特に過去の脚本を今の櫻木さんが再び演出し、今の三日月の出演陣が演じたらどうなるものか非常に興味深い。
僕は今回作品の内容には一切触れなかったが、僕は今作を観終えた時の「これが観たかった。」という感想以上の感想はもはや必要ないと思った。
だが、最後にひとつだけ書き加えるとしたら、今作は『トロイメライ』へのアンサーソングであるのと同時に、今の時代に日本に生きているアーティストであれば、避けて通る事の出来ないある出来事に対するアンサーでもあると思うという事だ。
僕はアーティストであれば、そうして当然だと思うのだが、同じ様なスタンスで作品に向かうアーティストが意外と少ないとも感じている。僕に言えるのは、櫻木さんの様なスタンスこそ本当のアーティストの姿だと思うという事だ。
優れたアーティストと同時代を生きる事の素晴らしさ、喜びを実感するのはこういう時だ。
そして僕たち観客は各々がそれをしっかりと受け止め、各々が自分自身の答えを出すべきなのだと思う。
La Vita e Bella]]>
三日月バビロン『玻 璃 ノ 翅 音 FRAGILE WINGS - world's end square –』総括
http://ko1kubota.exblog.jp/16500916/
2011-06-21T23:01:00+09:00
2011-06-25T21:12:59+09:00
2011-06-21T23:01:51+09:00
ko1kubota
Artist
そこで、千秋楽を終えてから改めて詳しい感想を書くつもりでいたのだが、僕がこの作品を通して感じた事をうまく表現するのは難しく、またその為の重要なポイントが憶測の域を出ない事もあって、どう書いたものか悩んでいる間に随分時間が経ってしまった。
でも、作・演出の櫻木バビさんのTwitterでのつぶやきから、憶測の域を出なかった部分の真実が確認出来たので、改めて感想を書いてみようと思う。ただし、ある程度ストーリーの重要な部分に触れないと書くのが難しいのがある程度のネタバレを含むと思うので、公演後とは言え、再演の可能性もあるのでネタバレを気にする方はここから先は読まない様ご注意頂きたいと思います。
僕が今作で最も強く感じたのが、非常に緊張感、緊迫感が高い作品だという事だ。もっとも、三日月の作品は常に非常にシリアスなテーマを扱っている為、どの作品もある程度の緊張感、緊迫感の高さは感じさせられるのだが、特に近作においては、コミカルなシーンを多用する事で、緊張と緩和のバランスをうまく取っている作品が多く、どちらかと言うとコミカルなシーンが控えめだった今作の緊張感、緊迫感は際立っていたと言えると思う。
こと、緊張感、緊迫感という事では、非常にシリアスで現実的なテーマを扱った『トロイメライ〜翼の枷〜』に匹敵する位のレベルだったと思う。
それは、今作の内容が関東大震災と大きな関わりを持ったものであり、東日本大震災から約2ヶ月後でもあり、その大震災からの復興はまだこれからという時期に公演されたものであった事から当然の事だと言えると思う。
今回の上演期間中、2日目と千秋楽は雨の中での公演となった。舞台でも外は凄い雨だというシーンがあり、現実と舞台の境界が曖昧に感じられる間隔を味わったのだが、舞台上の設定は関東大震災の2年後、現実の世界は東日本大震災の2ヶ月後であり、観客はどうしても現実のリアルな問題と舞台とをシンクロさせてしまうのは避けられないだろう。僕にはこの舞台の現実との強いリンクが現実の雨を呼んだのではないかとすら感じさせられた。
忘れてはならないのが、今作は本来2010年10月に上演される筈だったのが、今年5月に延期された作品であるという事実だ。大震災の後の公演であるから、設定に関東大震災を取り入れたのではなく、10月以前には出来上がっていた筈のオリジナルの脚本からその設定はあったのだと思う。それは僕の憶測でしかなかったのだが、櫻木バビさんのTwitterでのつぶやきで実際にそうだった事が裏付けられた。
そして、公演が震災の2ヶ月後という事になった配慮から、かなりオリジナル脚本に改変を施したと思われる。それは、登場人物達が震災という言葉を慎重に避けていた事からも容易に想像出来た。
そして、その配慮による改変が、今作の緊張感、緊迫感の高さにも大きく関係していると言える。つまり、ある人が大きな心の傷を負った事柄の話題を避けようとする行動は、その人の負った心の傷の大きさを逆に強く印象付ける効果があるからだ。
つまり、震災という言葉を避ける事で、むしろ観客は現在がまだ震災の大きな傷跡がまだ癒えていない状況である事を強く意識せざるを得ない。その事が現実と舞台のシンクロを高め、観客を舞台の世界に引き込む力になっていたと言えるだろう。
おそらく、公演の延期によって大震災の後の上演になってしまった事で、作・演出の櫻木バビさんは大いに悩んだに違いないと思う。しかも大震災から公演まではたった2ヶ月の期間しかなく、特に大震災の直後からしばらくは、脚本を書き直したり稽古したりという事もままならない様な状況だったに違いないと思うので、実際にはもっと時間の猶予は少なかったと思う。
その間に脚本を改変し、稽古をやり直して公演にこぎ着けたのは、非常に困難な事も多かったと思う。しかし、舞台の出来はそんな事は微塵も感じさせない位充実したものだった。
初日の感想にも書いたが、それは現在の三日月のキャスト陣のレベルが非常に充実している事の現れでもあったと思う。
今作の脚本の非常に秀逸な点のひとつに、多彩な登場人物のきめ細かやな描写にあるが、それも出演者一人一人のレベルが高かった為に可能になったのだと思う。
従来の三日月作品も登場人物のきめ細やかな描写というのは特徴のひとつだったのだが、今作は特にそれが際立っている。登場人物一人一人が、それぞれその人を主役にした作品が1本書けるのではないかと思う位、それぞれドラマを抱えているのが感じさせられるのである。
それは例えば、かなり終盤になって登場する出番の少なめだった主人公の親戚、真にも当てはまるし、冒頭から登場してはいたが終盤近くまでは喫茶店の常連客の一人というエキストラに近い役所に思えていた京湖にも言える事である。
そして、その中で最も要となっていたのが、女給頭、蔦子役の深澤寿美子さんの存在だったと思う。
深澤さんは非常に芸達者な役者さんで、これまでの舞台でもその実力を遺憾なく見せてくれていたのだが、どちらかと言うとコミカルな役柄を担当する事が多く、物語の中核に関わって来る役所は少なかったと思う。しかし、今作では物語の語り部として重要な役所を任され、それを見事に果たしていたと思う。
今作では多彩な登場人物達が、それぞれの視点で自分の物語を語る。しかし、主人公の翅音にしても、回想シーンでの翅音の姉音羽、姉妹の母であるじょおんにしても、情報ブローカーの退助にしても、自分の視点で物語を語るがそれはそれぞれが知り得る限定された内容であり、それらを組み合わせる事で多角的に物語の全容は浮かび上がって来るのではあるが、全てを知っている訳ではないものの、ある程度全体像を把握しているのは、元友倉家の使用人だった蔦子と朗だけであり、蔦子がバラバラに語られる物語をひとつに紡ぐという、語り部達のアンカー役を担っていると言える。
従来ならそういう要の役は梅原さんかかやべさんが演じていたと思う。今作ではその役所を深澤さんが担う事で、梅原さんもかやべさんも他の役を演じる事が出来たと言う事が出来、それが今作の登場人物の多彩さ、役柄の幅の広さに一役買っていると言えると思う。
その事が、僕が今作を三日月の集大成的作品と感じた要因のひとつにも関係している。今作の内容には幾つも過去の三日月作品を彷彿とさせるシーンが内包されている。例えば、姉妹の母役のかやべさんがその生い立ちを語るシーンは、東京夢華録シリーズで上演されて来た一人芝居(ポエトリーリーディング)を彷彿とさせるものだったし、狐の面を被って舞踊りながら昔話を語るシーンも、過去の作品でも良く似たシーンがあったと記憶しているし、ラストでの主人公の台詞の一部にしても過去の作品からのリプライズの様だ。
そういう構成を取っている事が僕が今作を集大成的作品と感じた理由のひとつだが、それが可能になったのもキャスト陣の充実による所が大きいのではないかと思う。
主宰の梅原さんは若手の役者さんが充分な実力を備えて来た事により、このタイミングでその様な集大成的な作品を作ろうと思ったのかも知れないと思う。だからこそ、そのキャストの一角が崩れたら目標としていた作品には到達しないと考え、舞台の延期を決断したのだと思うが、その事によって公演直前に現実に大震災が起こってしまうという困難な状況に陥ってしまったのは、何という巡り合わせだろうと思う。
梅原さんの気持ちを察すれば、その作品を当初の想定した内容から改変しなければならなかったのは無念だったのではないかと思う。でも、僕はその当初の脚本の内容を全く知らないという立場から勝手な事を言わせてもらうと、それは必然だったのかも知れないと思う。
僕は、結果的に今作は非常に困難な状況にある今、公演するに相応しい内容になっていたと思う。優れた芸術作品にとって時代性と言うのは重要な要素だと思う。同時に普遍性というのも大事なものであるが、三日月の作品というのはどちらかと言うと、いつの時代にも人が抱えるであろう本質的な問題を扱った作品が主であり、普遍性の方が強かったと思うのだが、今回もその普遍性的な内容の強い作品でありながら、いくつかの偶然が重なる事によって同時に時代性の非常に強い作品にもなったと言える。
それは単なる偶然であるかも知れないが、僕には非常に優れたアーティストだからこそ巡り合う事になった必然の様に思える。
それは今作のタイミングが、三日月バビロンという劇団が過去最も充実した状態の時に巡って来た事も含めて必然だったとしか思えないのだ。
『トロイメライ〜翼の枷〜』以降、櫻木バビさんは従来の作品とは異なったアプローチの作品を描いて来たと思う。そのひとつに従来の作品よりより強い希望を描こうとしている様に感じられるという事が挙げられる。
今作では、『トロイメライ〜翼の枷〜』以前の作品のアプリーチに近い構成の作品でありながら、絶望的な状況からの最後のドンデン返しによってより強い希望を描く事に成功していると思う。
その絶望は舞台の上では主人公以外には公然の秘密となっている。主人公は本当はその絶望的な事実を知っているが、それがあまりに受け入れ難いものである事から記憶喪失となり、幻覚を見る事でその事実を直視する事から逃避している。
主要な登場人物はその事実も主人公が幻覚を見ている事も知って、それに合わせてお芝居をして主人公を絶望的な現実を直視する事から守ろうとしている。その事は直接的には明かされないが、物語が進行するに連れ観客にもその事が薄々分かって来る。その事がこの作品の緊張感、緊迫感の要因のひとつになっていると言えるだろう。
観客は主人公の記憶がいつ戻るのか、絶望的な現実に向き合う事になるのか固唾を飲んで見守る事になる。その観客の気持ちの代弁者としての役を演じているのが、主要キャストで唯一事情を知らない茜役の今夢子さんだ。
主人公が自分の幻覚に合わせて周囲がしているお芝居のほつれに気付いてしまい、自分の見ている幻覚に疑念を感じた時に、事情を知らず、お芝居をする理由等ない筈の茜を問い詰めるのだが、事情を知らされていない茜も観客同様、周囲の人達による不自然なお芝居の意味する事には薄々感づいていて、問い詰められるとしどろもどろになってしまう。その事で観客は自分が薄々感づいていた事が正しかった事を知るのである。
この様に説明的な台詞を用いずに、状況を説明するのは櫻木バビさんの脚本の真骨頂なのだが、それも今夢子さんの演技力にかかっていると言え、今さんの成長を強く印象付けられるシーンだった。
また、女性が多い三日月の中にあって男性役を演じられる貴重な存在だった暁月 柊さんも、今回は今まで以上に出番も多く、主人公を守ろうとする周囲の人達の気持ちを表現する上で重要な役割を果たしていて、その存在感を今まで以上に発揮していたと思う。
由林さん、ゆきなさんのお二人も、どちらかというとおっとりとした演技で、従来よりコミカルなシーンが少ない今作で、雰囲気を和ませる役割を果たしていたと思うし、千明さん、藤木 智将さんの新人お二人も従来の三日月の舞台には余り登場しなかった個性を持った役者さんで、今作の登場人物の幅の広さに一役買っていたと思うし、新鮮な印象を残してくれたと思う。
僕はこの状況を初日の感想で、役者が揃ったと表現した。僕は長く三日月の舞台を観て来たが、今が最も三日月の役者陣が充実して結束力も固く良い状態なのではないかと感じている。
その状況を作る上で最も重要な存在が主役を演じている木原春菜さんである事は間違いないと思う。彗星の様に現れ、出演2作目から堂々と主役をこなして来た木原さんの存在なくしては今の三日月バビロンは存在し得ないと言って良いと思う。
三日月バビロンの集大成的作品と言える今作で、集大成的なラストシーンを任された木原さんの台詞に説得力がなければ、現実の大震災の僅か2ヶ月後に上演された今作は、その現実の重さに負けて空々しいものになってしまったに違いないと思う。
しかし、そうはならずに、今現在この重い状況の現実に直面している全ての人へのメッセージとして、木原さんの台詞は観客の胸に届いたのではないかと思う。
僕は代弁者という言葉をよく使うが、それは決してネガティブな意味ではなく、演劇というものが集団芸術である限り、作・演出の伝えたいメッセージを的確に伝えられる代弁者の存在は不可欠であり、櫻木バビさんは木原春菜さんという理想的な代弁者を得たと言えると思う。
櫻木さんと木原さんの出会いという奇跡が、大震災の直後に今作が上演されるという奇跡を呼んだと言えると思う。
そういった意味で今作は三日月バビロンの集大成的作品であると同時に、三日月バビロンという劇団の歴史の上で大きな節目となる作品になったと思う。
同時に今作を越えて、三日月バビロンがどういう方向性に向かうのか、今後の作品が大いに楽しみになったと思う。]]>
三日月バビロン『玻 璃 ノ 翅 音 FRAGILE WINGS - world's end square –』
http://ko1kubota.exblog.jp/16389055/
2011-05-27T23:36:00+09:00
2011-05-28T23:19:58+09:00
2011-05-28T03:38:24+09:00
ko1kubota
Artist
『玻 璃 ノ 翅 音』は本来2010年10月に上演される筈の作品だったが、主要キャストの役者さんが出演出来なくなった為に公演が延期されたという経緯のあった作品である。キャストを変更して上演する事をよしとせず、構想通りの完璧な作品とする為に延期し、満を持して上演される事になった訳だ。
その経緯故に否が応でも期待は高まる。どんな作品になるだろうかと胸を弾ませながら開演を待った。幕が上がっての最初の印象は、今までの三日月作品とはどこか雰囲気が違うという事だ。
舞台は日本。『琥珀ノ宴』以来の和風ファンタジーだが、『琥珀ノ宴』とも雰囲気が違う。三日月の作品はどちらかと言うとマニアックな印象があり、例えば小劇場の演劇を余り観ていない様な人には少々敷居が高い所があるかも知れないという印象もないではなかったが、『琥珀ノ宴』では演劇を全然観た事がないという人でも受け入れられる様なポピュラリティを獲得したと感じたのだが、それが今作品はより一層強くなった印象だ。
最近の三日月作品に感じる事に、登場人物一人一人がとてもキャラが立っていて、魅力的に描かれているという事があるが、今作でもそれをより一層強く感じさせられた。冒頭から、多彩で魅力的な登場人物達と、その登場人物達の温かな人間関係、それによって構築されている温かな世界観にぐいぐいと引き込まれていく感じだ。それはまるで良質な大河ドラマの初回を観ている様な感覚であり、この作品の舞台設定、一人一人の登場人物の人物設定が非常にきめ細やかに設定されている事を感じさせるものであり、それがたった2時間弱という1回の舞台の為に成されたものと考えると勿体ないと感じる位贅沢な印象だ。
そして、その中心にいるのは、木原 春菜さん、深澤 寿美子さん、今 夢子さんという若手の役者であり、もうこの3人を若手と呼ぶのは相応しくないと思える程の安定感を感じさせられるものだった。そして、脇を固めるベテラン勢は勿論、今回で2回目の出演となる由林さんの存在感も、最早三日月に欠かせないものになっていると感じたし、今回が三日月の舞台では初出演となるキャスト陣も違和感なく三日月の世界観に溶け込むと共に、三日月の作品に新たな風を吹き込んでくれているという印象を持った。
正に役者が揃ったという印象。かつて若手を育てながら、質の高い作品を創り続けている主宰の梅原真実さんの仕事を全力疾走による助走と評した事があるが、今の三日月バビロンは梅原さんの目指していた理想に限りなく近い状態に達しているのではないだろうか?
そして、今回の舞台で忘れてはならないのは、かねてより三日月の舞台には欠かせない役者となっていた榎本 淳さんである。榎本さんは三日月の舞台では常に重要なバイプレイヤーの役割を果たして来たが、今回はかつてない程重要な役を演じていて、影の主役と言っても良い程だ。
そして、従来はコミカルな役所を演じる事も多かったが、今回はシリアスでハードボイルドな役所であり、カッコいい榎本さんを存分に観る事が出来る。榎本ファンにはたまらないだろう。
その充実したキャスト陣によって演じられる冒頭部分を観ている段階から、僕はこの作品は三日月にとってひとつの集大成と言える作品になるかも知れないと感じていた。僕自身にしか分からない例えかも知れないが、Mike Oldfieldの作品に例えたらTubular Bells IIIに相当する様な作品になるのではないかと。
Mike Oldfieldの代表作と言えば、デビュー作にして最大のロングセラーとなったTubular Bellsだろう。Mikeはヴァージンからワーナーに移籍した時に第一弾としてTubular Bells IIを発表した。Tubular Bells IIは単にTubular Bells のリメイクではなく変奏曲的な作品だった。そしてTubular Bells IIIでは、今度は単なる変奏曲ではなく、デビューからその時点までのMikeの全ての作品の要素を内包する様な集大成的作品であり、尚かつ大胆にテクノサウンドを取り入れた新しい要素のある作品でもあった。
三日月の場合は劇団三日月少年名義だった頃の初期の代表作と言えば『コクーヤ〜水時計(クレプシドラ)サナトリウム〜』だと僕は思っている。そして、三日月バビロンと劇団名を改称しての旗揚げ公演ではその『コクーヤ』の単純な再演ではなく、大幅に改訂した『虚空夜〜クレプシドラ・サナトリウム〜』を上演している。
そして、今作の『玻璃ノ翅音』では、主人公が姉妹である点や、その姉妹の運命に母親の存在が大きな影を落としている点等『コクーヤ』と共通する要素を見い出せるものの、その舞台設定や物語の展開は全く違うものであり、今までの三日月作品で櫻木バビさんが追い続けてきたテーマに何らかの決着を付ける様な集大成的な作品になるのではないかという予感と同時に、Tubular Bells III同様、今までの作品にはない何か新しい要素が加わっている事を感じさせられると思いながら観ていた。
そして、僕はラストシーンでその予感が当たっていた事を知る。今作のラストシーンは、従来の三日月作品のラストシーンと非常に良く似ているものだったが、決定的に異なっている事がひとつだけあった。
だが、そのたったひとつの違いは、今まで三日月作品を観続けて来た者にとっては、今作を考える上で、そして今までの三日月作品を振り返る上で、非常に重要な大きな違いだったと言えるだろう。
それは大きな驚きだったとも言えるが、同時にそれほど驚くべき事ではないとも言える。その大きな違いがあったとしても、作家櫻木バビさんが、ラストシーンに込める想いは変わらないのだろう。ただ、その想いを表現する方法が少しだけ変わっただけだ。でも、その少しの変化は非常に大きな変化だと言えると思う。
間違いなく今作は三日月バビロンにとって、そして櫻木バビさんにとって、ひとつの区切りとなる作品になったのだと思う。
そう感じながらザムザ阿佐ヶ谷を後にした僕は、電源を切っていたiPhoneの電源を入れ、iPodアプリのシャッフル再生をスタートさせた。最初にかかった曲はMike OldfieldのTubular Bells IIIだった。
その偶然を僕は何故か驚きもせずに当然の事の様に受け止め、Tubular Bells IIIを聴きながら帰路についた。
Tubular Bells IIIはその集大成的な内容に加え、引退をイメージさせる様な歌詞や台詞が含まれていた為に一部のファンの間でMikeの引退説が囁かれる事になった。しかし、実際にはMikeはその後もむしろ従来の作品とは全くアプローチの異なる作品を精力的にリリースし続けている。
三日月バビロンの作品も今後アプローチが大きく変化するだろうか?そしてそれはどの様なアプローチになるのだろうか?Tubular Bells IIIのサウンドに身を委ねながら、僕の胸は期待で高鳴っていた。]]>
第1回震災被害者・被災地支援チャリティーコンサート"被災地に元気を届けよう!!"
http://ko1kubota.exblog.jp/16305534/
2011-04-17T22:31:00+09:00
2011-05-13T01:42:34+09:00
2011-05-09T20:44:50+09:00
ko1kubota
Live Photo
星 直樹さんは、三日月バビロンと作曲家、松岡 政長さんを引き合わせてくれた人でもある。松岡さんはその後、三日月バビロンの公演の音楽を手がけただけでなく、三日月の公演を通した出会いから、HINAKO-ARTの活動も開始したし、function code();に参加する事ににもなった。星さんがいなければ、それら全てはなかっただろうし、僕自身今では大ファンである松岡さんを知る事も出来なかっただろうから、とても恩を感じている人だ。
その星さんから、数年降りに突然連絡があり、チャリティーコンサートのお手伝いをして欲しいと頼まれた。その時のメールの文面では、既に一週間以内に接近した第1回より、第2回のスタッフを捜しているという意味に取れたので、ちょうど前日に鐘岡さんの講演の撮影を終えたばかりで疲労で体調が良くなかった事もあり、その週末に迫っている第1回ではなく、第2回の撮影をお手伝いするとお返事したのだが、それに対し第1回のカメラマンも見つかっていないので、出来れば誰か紹介して欲しいと返事が来た。
もう数日後に迫ったコンサートの撮影を無理に頼める様な知り合いもいないし、恩ある星さんが困っているならと第1回からお手伝いさせて頂く事に決めた。
そして、当初はスチールの撮影に加えビデオカメラを貸して欲しいという事だったが、直前になってどうせ撮影するならUST配信もさせて貰いたいと思った。もう直前で充分に告知する時間もないし、あまり多くの人に観てもらう事は出来ないかも知れないと思ったが、もし一人でも観て貰える可能性があるなら配信したいと思ったし、第2回に向けての布石にもなると思ったからだ。
そこで当日は、据え置きながらビデオ撮影とiPhoneを使ったUST配信をしながらスチール撮影もするという事になった。ビデオに関してはメインのフルHD動画を撮影するGH1に加え、万が一GH1にトラブルが発生した場合に備えて、SDビデオをサブのGZ-MC500で撮影するという体制をとったが、どちらも撮影しながら撮影映像をビデオ出力する事が出来ず、2台もビデオカメラを回しながら、UST配信はそれとは別にiPhoneの内蔵カメラを使わざるを得ない状況となった。
もっとも、iPhoneの内蔵カメラの画質は悪くはない。問題は内蔵マイクの音質だ。今回もマイクの容量不足でレベルオーバーになったのが原因と思われるノイズが乗ってしまった。
ビデオカメラなら撮影映像をビデオ出力出来て当たり前だと思っていたのだが、最近のビデオカメラは意外とその機能がないカメラが多い様だ。ここの所、懸案となっているビデオ出力問題だが、何とか第2回のチャリティコンサートまでには解決したいと思う。
チャリティコンサートは、ほとんど星さん個人の尽力で実現したものであり、準備期間も少なかった為苦労も多かったようだが、とにかく無事開催され、出演者も若くてこれからの音楽家の方達が中心という事だったが、充実した内容の良いコンサートだったと思う。
特に盛岡在住で被災地の避難所を回って活動されているという熊谷 絵美さんから、被災地の状況を語っていただいたり、最後には観客の方も参加されて被災地への思いを込めて全員で合唱するなど、単に募金集めだけに留まらない内容でありとても有意義なコンサートだったのではないかと思う。
僕にとってもただ撮影しただけだが、それでも思いがけずチャリティイベントに関わる事に出来、貴重な体験になったと思う。
5月13日には四ッ谷聖イグナチオ教会ヨセフ・ホール にて、第2回のチャリティコンサートが開催される。第1回で発生した音声トラブルも解消し、より音質の良いUST配信をするべく準備を進めて行きたいと思う。
第2回開催情報
第2回USTREAM配信ページ]]>
心音@いするば
http://ko1kubota.exblog.jp/16300535/
2011-04-10T22:28:00+09:00
2011-06-24T01:45:09+09:00
2011-05-08T20:37:32+09:00
ko1kubota
Live Photo
会場はいずるばという、一見普通の住宅の様な建物で大きな窓もある。
即興公演の前にはNUU(出演/香央里 振付・演出/鐘岡美心)による『静かな漠音』も上演された。当初は振付・出演/香央里 鐘岡美心という作品になる予定だったが、震災の影響による稽古不足などで変更となった。
今回は『静かな漠音』はスチールとビデオ撮影、UST配信を行い、即興公演の方はビデオ撮影とUST配信のみとなった。
『静かな漠音』は2月のヨコハマダンスコレクションで上演された『静かな漠音』のための考察(試作品)の発展的な作品と言って良いと思うが、5人出演者がいた『静かな漠音』のための考察(試作品)と一人だけの出演である今回の『静かな漠音』は大きく印象が違い共通点を見い出すのは難しい。
ひとつ共通点をみつけるとすれば、それは静と動であり、それはこれまでの鐘岡美心さんの作品の多くに共通する点でもある。
ただ、今回の作品は当初考えていた作品とは大きく内容が異なるものになっている筈で、現段階で評価されるのは鐘岡さんも香央里さんも不本意だろうと思う。しかし、鐘岡さんの個性と香央里さんの個性が違和感なく融合している作品にはなっていると思う。
それだけに本来二人が目指していた作品がどんなものだったか観てみたいと思ったが、それを観る機会はまたいずれあると思うので、それを楽しみにしていたい。
即興公演は、先ずは高原さん、富士栄さん、鐘岡さんによりトリオから始まった。僕は鐘岡さんの即興公演はlente.以外は余り観ていない。そのlente.に関しては鐘岡さんの振付作品と大きく印象は変わらないと思っていて、それは鐘岡さんと柳本和宏さんがlente.としてどの様な作品を作り上げて行くか、相談しながら練り上げて行くというスタイルを取っているからで、全くのぶっつけ本番的な即興公演とはやや性格が異なるからではないかと勝手に解釈している。
そういう意味では、今回の即興公演はより本来の即興に近いものではないかと思い、鐘岡さんがどういう踊りを見せてくれるか楽しみだった。
結果としては、振付作品ともlente.ととも違う鐘岡さんを観る事が出来たと思う。でも、それは鐘岡さんらしくないという意味ではなく、やはり鐘岡さんの個性を感じさせるものであり、鐘岡さんがまだ僕の知らない引き出しを沢山持っていたのを感じさせられるものだった。
また、公演中ダンスの鐘岡さんとヴォイスの富士栄さんの役割が逆転するシーンもあり、単純にダンサーとミュージシャンの共演による即興公演という以上のものを感じさせられるものでもあった。
トリオに続いて、鐘岡さんと富士栄さんによるデュオが上演された。当初僕はトリオの出演陣からひとり減ったデュオの上演の意味を量りかねていたが、始まって直ぐに富士栄さんがカーテンを開けて、いずるばの特徴的である大きな窓から、普通の民家の庭を思わせる情景が飛び込んで来て、富士栄さんが、まるで日常の中で気分が良くなって自然と鼻歌が出て来た様なさりげなさで歌い始めた時に、トリオとは全く異なった印象の内容になっている事に感心させられた。
最初は外光だけで照明は全くない状態で始まり、徐々に照明が加わって行き、外の景色が段々暗くなって行くに連れ、照明も強くなって行くという、外光と照明のコントラストが奇麗で印象的な上演だった。
いずるばという特殊な場所だからこそ実現出来た演出であり、公演というのは出演者だけでなく照明や音響等スタッフの力も欠かせないものだという事を再認識させられるものだった。
出演者からすれば、トリオで40分上演した後、またデュオで40分上演するというのは、どうやって違いを出すかという点で難しいと思うのだが、演奏も踊りもトリオとはまた違った切り口を沢山見せてくれて、40分+40分という長丁場の公演だったが、飽きる事なく楽しめるものだったと思う。
公演後は打ち上げにご一緒させて頂いたのだが、出演者の方々からは反省や指摘の言葉が多数聞かれたのが興味深かった。観ている側からすれば、充分良い公演だったと思うのだが、出演者の方々からすれば、もっと良く出来た筈だという向上心があるのだと思う。
そして、その会話が決してネガティブなものではなく、非常に楽しそうなのである。次の機会があればもっと良くしたい、もっと向上したいというポジティブな思いがそうさせているだと思う。
そういうポジティブな思いで活動している方々だからこそ、良い公演を観せて貰えるのだという事を改めて再認識すると共に、そういう空間に同席出来た事が楽しく嬉しかった。
※ワイドサイズの為blogの横幅からはみ出しています。動画をダブルクリックしてフルスクリーンで鑑賞するか、タイトルをクリックしてYouTubeに移動してご覧下さい。]]>
テルミンとボサノヴァの夜@北千住CUB
http://ko1kubota.exblog.jp/16258732/
2011-02-19T22:52:00+09:00
2011-04-29T21:33:22+09:00
2011-04-29T21:19:17+09:00
ko1kubota
Live Photo
先日のここやさプロジェクトのライブを撮影させて頂いた時に、USTREAM配信もさせて欲しいと申し込んだのだが、その時にトリ音さんから「テルミンとボサノヴァの夜」もUSTREAM配信して欲しいと依頼されたのだ。
この様に一度ライブ撮影活動を再開すると、それがきっかけでまた次の撮影が決まったりする。それ自体は嬉しい事なのだが、今の自分としてはそれでオーバーペースに繋がる可能性もあるので痛し痒しという側面もないでもない。でも、今回はUSTREAM配信がメインという事で、気楽に撮影に臨む事にした。
スチールの撮影はここやさプロジェクト同様リハのみという事で、少し早めに北千住CUBに着き、リハを軽く撮影させて頂いてから、USTREAM配信のセッティングを始めた。
ところが、地下1階の店舗はUQ WIMAXは圏外になってしまう。ソフトバンクの電波は入るのだが、iPhone単体でソフトバンク回線を利用して配信した場合は、無線LANでUQ WiMAX回線を利用した場合に比べて、かなり動画のビットレートの設定が下がってしまい、画質音質共に悪くなってしまう。
お店はB1とは言え、階段は建物外にあり、屋外からお店の入り口までは何も障害物はない。そして、ドアから入った直ぐのカウンター席から撮影する事になったのだが、ドアから1番近いその席までUQ WiMAXの電波は届かない。ならば、ドアの外にUQ WiMAXのモバイルルーターを置いたらどうかと考えたのだが、ドアの外にも電波は届かない。階段を上がってほぼ地上近くまで行ってやっと電波が入る様になった。
屋外にある階段を少し下がっただけで電波が届かなくなるUQ WiMAXの電波の伝達性の悪さに少し唖然としつつ、階段の上の物陰にモバイルルーターを置いて、店内まで無線LANの電波が届くかも試したのだが、それも届かなかった。
結局、ソフトバンク回線でUSTREAM配信を行う事になったのだが、画質音質が悪くなってしまうのは残念だった。確かにソフトバンク回線よりUQ WiMAX回線の方が回線速度は速いのだが、実効速度にそれほど大きな差はない。実効速度の差に比べて、画質の低下は大き過ぎる感じがあるので、USTREAM配信アプリの設定をもう少し改善して欲しいと思う。
そして、USTREAM配信のセッティングを終えて、ビデオ撮影のセッティングに取りかかった所、大変な大ポカに愕然としてしまった。ビデオ撮影用のLUMIX GH1のバッテリーを充電したまま、カメラに戻し忘れていたのだ。USTREAM配信の事ばかり考えていて、iPhone用モバイルルーター用の外部バッテリの充電や接続ケーブル等何度も忘れない様にチェックしたのだが、GH1のバッテリーの事をすっかり忘れていた。
そこで、スチール用のEOS 7DでもフルHD動画の撮影は可能なので、7Dでビデオ撮影をする事にしたのだが、ビデオ撮影を考慮していない7Dには16GBのカード1枚しか持って来ていない。7Dの動画は圧縮率が低く、16GBフルに使っても2時間弱しか録画出来ないのだが、スチールの撮影データもあるので1時間強しか撮れないだろう。
でも、GH1用の32GBのSDメモリカードは7Dには使えないし、撮れるだけ撮るしかないと撮影を始めたのだが、本来29分は連続撮影出来る筈の7Dだが、何故かその前に録画が中断してしまう症状が出てしまった。
どうも、メモリーカードへの記録が追いつかなくなって止まってしまう様なのだが、続く時は20分近く撮影出来る場合もあれば、早い時には数十秒で止まってしまう場合もあり、動作が安定しない。おそらくファイルの断片化の影響の様だ。おそらく何も記録されていないまっさらのカードだったら規格通りの連続撮影が可能だったのだろうが、スチール撮影に使用したカードだった為にファイルの断片化が起こり、それが動画撮影に影響してしまった様だ。
という訳で、撮影の方は色々と思う様に行かない残念な結果になってしまったが、ライブの方は素晴らしかった。
テルミンとボサノヴァという組み合わせは意外な感じがするけど、非常に良くマッチして独特な雰囲気を醸し出していた。
特に印象に残ったのは「蘇州夜曲」だ。中国風の楽曲とテルミンがこんなにもマッチするとは意外だったが、そう言えばテルミンの音色はどことなく、中国の楽器二胡の音色に似ているのだと気付いた。もっとトリ音さんの演奏で中国の楽曲を聴いてみたいと思った。二胡で演奏する様な中国の伝統音楽をテルミンで演奏したら面白いかも知れない。いつか是非聴いてみたいと思う。
また、今回のライブでは、大ヒットゲーム「みんな大好き塊魂」の楽曲「天使の雨」も聴く事が出来た。オリジナルは元フェアチィルドのYOUが歌っているのだが、「塊魂モバイル」のiPhone版のアップデートの新ステージ用BGMとしてトリ音さんのテルミンバージョンの「天使の雨」が収録されているという事で聴いてみたいと思っていたので、聴く事が出来て嬉しかった。思わずゲームも欲しくなってしまったが、ミュージックテストモードはあるだろうか?
今回はテルミンとボサノヴァという意外な組み合わせで、いつもとは違うテルミンの新しい魅力を味わう事が出来たライブだった。
昨年末のもめん。のライブから、ライブ撮影活動ちょっと拡大モードが続いていて、改めてライブは良いなあと感じる一方で、やはり今の自分に取ってはオーバーペースである事を痛感した事も事実だった。
今回でライブ撮影活動ちょっと拡大モードは一区切り付けて、元のペースに戻し、しばらくは少し体を休めたいと思う。ただ、細々ではあっても無理をしないペースで今後もライブ撮影は続けて行きたいと思う。
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『静かな漠音』のための考察(試作品)@YOKOHAMA DANCE COLLECTION EX2011
http://ko1kubota.exblog.jp/16200691/
2011-02-05T22:48:00+09:00
2011-04-23T15:50:36+09:00
2011-04-16T23:52:08+09:00
ko1kubota
Live Photo
コンテンポラリーダンスショーケースの前には「くじ引きダンス」というインプロセッションもあり、鐘岡美心さんはそちらにも出演されるという事で、そちらも撮影させてもらうつもりで会場に向かった。しかし、今回は撮影だけでなくUSTREAM配信も予定していたのだが、会場に入るとソフトバンク回線もUQ WIMAX回線もほぼ繋がらない状態だった。
だが、電波がかなり弱く不安定ながらも公衆無線サービスの電波がキャッチ出来たので、他に選択肢がないと思い大急ぎでワンディプランへの入会登録をする。入会手続きにやや時間がかかり焦ったが「くじ引きダンス」開演前に上演スペースに入る事が出来た。
しかし、機材をセッティングして電波状態を確認すると、ほぼ電波がない状態。展示スペースでも電波は不安定だったので、電波状態が回復する事を期待して待ってみたが、一向に回復しないため、おそらく上演スペース内は上演に使用するワイアレス機器等への影響を考えて電波をシールドしているのではないかと判断し、USTREAM配信不能な事をネットに書き込む為に一度上演スペースを出て展示スペースでネットへの書き込みを済ませて上演スペースに戻ると、鐘岡美心さんの出番が始まってしまっていた。
カメラを最前列の席に置いて来たので、なす術も無く立ち見で鐘岡さんの出番を観終えて席に戻った。最後に全員出演のセッションが行われたが、鐘岡さんの出番は少なく、あまり写真も撮れなかった。残念だが、仕方ない。
「『静かな漠音』のための考察(試作品)」は鐘岡さんの振付け作品だが、鐘岡さん自身は出演しない。僕が鐘岡さんの作品を撮影するようになって、鐘岡さん自身が出演されない作品を撮るのは今回が初めてだ。
出演は鐘岡さんが主宰する、屋外即興稽古の参加メンバーで結成されたNUUというパーフォマンスユニットだという事だ。
作品の内容は今まで僕が観て来た鐘岡さんの作品とは大分違うものであると感じた。勿論、鐘岡さんらしい所は随所にあるのだが、僕がそう感じたのはやはり鐘岡さん自身が出演されていない事が大きかったのかも知れない。
5人のダンサーが出演する作品であり、その点に重点を置いて振付けされていると感じた。女性5人それぞれ個性も違うし、考え方や好みやダンスの技量も違うであろう5人がひとつの作品を踊るという事に意味があるのだろう。
てんでばらばらに踊るシーンもあれば、群舞の様に一緒に踊るシーンもある。群舞のシーンも奇麗に揃って踊るという訳ではないし、衣装もバラバラだ。それはまるで、人はそれぞれ自分の個性を大事にして生きていくものだというメッセージの様でもある。
女3人寄ればかしましいという言葉もあるが、5人の個性の違う女性達のよる踊りは華やかで楽しいものだった。5人の出演者がそれぞれ楽しんで踊っているという印象だった。
公演後、鐘岡さんと話をしたのだが、鐘岡さんは以前にもこういう内容の振付け作品はよく作ったという事で、特に新しい作品を作ったという意識はなさそうだった。
でも、僕にはNUUという新しいプロジェクトを始めて、最初の公演であった事もあり、鐘岡さんの新しいチャレンジの始まりという事を強く感じられた作品だったと思う。
これから、鐘岡さんとNUUがどの様な方向に進んでいくのか、楽しみにして行きたいと思う。
鐘岡美心公式blog:http://blog.goo.ne.jp/shizuaraki/]]>
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