2011年 05月 27日
三日月バビロン『玻 璃 ノ 翅 音 FRAGILE WINGS - world's end square –』 |
今日は三日月バビロンの新作公演『玻 璃 ノ 翅 音
ハ リ ノ ハ オ ト FRAGILE WINGS - world's end square –』の初日だった。
『玻 璃 ノ 翅 音』は本来2010年10月に上演される筈の作品だったが、主要キャストの役者さんが出演出来なくなった為に公演が延期されたという経緯のあった作品である。キャストを変更して上演する事をよしとせず、構想通りの完璧な作品とする為に延期し、満を持して上演される事になった訳だ。
その経緯故に否が応でも期待は高まる。どんな作品になるだろうかと胸を弾ませながら開演を待った。幕が上がっての最初の印象は、今までの三日月作品とはどこか雰囲気が違うという事だ。
舞台は日本。『琥珀ノ宴』以来の和風ファンタジーだが、『琥珀ノ宴』とも雰囲気が違う。三日月の作品はどちらかと言うとマニアックな印象があり、例えば小劇場の演劇を余り観ていない様な人には少々敷居が高い所があるかも知れないという印象もないではなかったが、『琥珀ノ宴』では演劇を全然観た事がないという人でも受け入れられる様なポピュラリティを獲得したと感じたのだが、それが今作品はより一層強くなった印象だ。
最近の三日月作品に感じる事に、登場人物一人一人がとてもキャラが立っていて、魅力的に描かれているという事があるが、今作でもそれをより一層強く感じさせられた。冒頭から、多彩で魅力的な登場人物達と、その登場人物達の温かな人間関係、それによって構築されている温かな世界観にぐいぐいと引き込まれていく感じだ。それはまるで良質な大河ドラマの初回を観ている様な感覚であり、この作品の舞台設定、一人一人の登場人物の人物設定が非常にきめ細やかに設定されている事を感じさせるものであり、それがたった2時間弱という1回の舞台の為に成されたものと考えると勿体ないと感じる位贅沢な印象だ。
そして、その中心にいるのは、木原 春菜さん、深澤 寿美子さん、今 夢子さんという若手の役者であり、もうこの3人を若手と呼ぶのは相応しくないと思える程の安定感を感じさせられるものだった。そして、脇を固めるベテラン勢は勿論、今回で2回目の出演となる由林さんの存在感も、最早三日月に欠かせないものになっていると感じたし、今回が三日月の舞台では初出演となるキャスト陣も違和感なく三日月の世界観に溶け込むと共に、三日月の作品に新たな風を吹き込んでくれているという印象を持った。
正に役者が揃ったという印象。かつて若手を育てながら、質の高い作品を創り続けている主宰の梅原真実さんの仕事を全力疾走による助走と評した事があるが、今の三日月バビロンは梅原さんの目指していた理想に限りなく近い状態に達しているのではないだろうか?
そして、今回の舞台で忘れてはならないのは、かねてより三日月の舞台には欠かせない役者となっていた榎本 淳さんである。榎本さんは三日月の舞台では常に重要なバイプレイヤーの役割を果たして来たが、今回はかつてない程重要な役を演じていて、影の主役と言っても良い程だ。
そして、従来はコミカルな役所を演じる事も多かったが、今回はシリアスでハードボイルドな役所であり、カッコいい榎本さんを存分に観る事が出来る。榎本ファンにはたまらないだろう。
その充実したキャスト陣によって演じられる冒頭部分を観ている段階から、僕はこの作品は三日月にとってひとつの集大成と言える作品になるかも知れないと感じていた。僕自身にしか分からない例えかも知れないが、Mike Oldfieldの作品に例えたらTubular Bells IIIに相当する様な作品になるのではないかと。
Mike Oldfieldの代表作と言えば、デビュー作にして最大のロングセラーとなったTubular Bellsだろう。Mikeはヴァージンからワーナーに移籍した時に第一弾としてTubular Bells IIを発表した。Tubular Bells IIは単にTubular Bells のリメイクではなく変奏曲的な作品だった。そしてTubular Bells IIIでは、今度は単なる変奏曲ではなく、デビューからその時点までのMikeの全ての作品の要素を内包する様な集大成的作品であり、尚かつ大胆にテクノサウンドを取り入れた新しい要素のある作品でもあった。
三日月の場合は劇団三日月少年名義だった頃の初期の代表作と言えば『コクーヤ〜水時計(クレプシドラ)サナトリウム〜』だと僕は思っている。そして、三日月バビロンと劇団名を改称しての旗揚げ公演ではその『コクーヤ』の単純な再演ではなく、大幅に改訂した『虚空夜〜クレプシドラ・サナトリウム〜』を上演している。
そして、今作の『玻璃ノ翅音』では、主人公が姉妹である点や、その姉妹の運命に母親の存在が大きな影を落としている点等『コクーヤ』と共通する要素を見い出せるものの、その舞台設定や物語の展開は全く違うものであり、今までの三日月作品で櫻木バビさんが追い続けてきたテーマに何らかの決着を付ける様な集大成的な作品になるのではないかという予感と同時に、Tubular Bells III同様、今までの作品にはない何か新しい要素が加わっている事を感じさせられると思いながら観ていた。
そして、僕はラストシーンでその予感が当たっていた事を知る。今作のラストシーンは、従来の三日月作品のラストシーンと非常に良く似ているものだったが、決定的に異なっている事がひとつだけあった。
だが、そのたったひとつの違いは、今まで三日月作品を観続けて来た者にとっては、今作を考える上で、そして今までの三日月作品を振り返る上で、非常に重要な大きな違いだったと言えるだろう。
それは大きな驚きだったとも言えるが、同時にそれほど驚くべき事ではないとも言える。その大きな違いがあったとしても、作家櫻木バビさんが、ラストシーンに込める想いは変わらないのだろう。ただ、その想いを表現する方法が少しだけ変わっただけだ。でも、その少しの変化は非常に大きな変化だと言えると思う。
間違いなく今作は三日月バビロンにとって、そして櫻木バビさんにとって、ひとつの区切りとなる作品になったのだと思う。
そう感じながらザムザ阿佐ヶ谷を後にした僕は、電源を切っていたiPhoneの電源を入れ、iPodアプリのシャッフル再生をスタートさせた。最初にかかった曲はMike OldfieldのTubular Bells IIIだった。
その偶然を僕は何故か驚きもせずに当然の事の様に受け止め、Tubular Bells IIIを聴きながら帰路についた。
Tubular Bells IIIはその集大成的な内容に加え、引退をイメージさせる様な歌詞や台詞が含まれていた為に一部のファンの間でMikeの引退説が囁かれる事になった。しかし、実際にはMikeはその後もむしろ従来の作品とは全くアプローチの異なる作品を精力的にリリースし続けている。
三日月バビロンの作品も今後アプローチが大きく変化するだろうか?そしてそれはどの様なアプローチになるのだろうか?Tubular Bells IIIのサウンドに身を委ねながら、僕の胸は期待で高鳴っていた。
『玻 璃 ノ 翅 音』は本来2010年10月に上演される筈の作品だったが、主要キャストの役者さんが出演出来なくなった為に公演が延期されたという経緯のあった作品である。キャストを変更して上演する事をよしとせず、構想通りの完璧な作品とする為に延期し、満を持して上演される事になった訳だ。
その経緯故に否が応でも期待は高まる。どんな作品になるだろうかと胸を弾ませながら開演を待った。幕が上がっての最初の印象は、今までの三日月作品とはどこか雰囲気が違うという事だ。
舞台は日本。『琥珀ノ宴』以来の和風ファンタジーだが、『琥珀ノ宴』とも雰囲気が違う。三日月の作品はどちらかと言うとマニアックな印象があり、例えば小劇場の演劇を余り観ていない様な人には少々敷居が高い所があるかも知れないという印象もないではなかったが、『琥珀ノ宴』では演劇を全然観た事がないという人でも受け入れられる様なポピュラリティを獲得したと感じたのだが、それが今作品はより一層強くなった印象だ。
最近の三日月作品に感じる事に、登場人物一人一人がとてもキャラが立っていて、魅力的に描かれているという事があるが、今作でもそれをより一層強く感じさせられた。冒頭から、多彩で魅力的な登場人物達と、その登場人物達の温かな人間関係、それによって構築されている温かな世界観にぐいぐいと引き込まれていく感じだ。それはまるで良質な大河ドラマの初回を観ている様な感覚であり、この作品の舞台設定、一人一人の登場人物の人物設定が非常にきめ細やかに設定されている事を感じさせるものであり、それがたった2時間弱という1回の舞台の為に成されたものと考えると勿体ないと感じる位贅沢な印象だ。
そして、その中心にいるのは、木原 春菜さん、深澤 寿美子さん、今 夢子さんという若手の役者であり、もうこの3人を若手と呼ぶのは相応しくないと思える程の安定感を感じさせられるものだった。そして、脇を固めるベテラン勢は勿論、今回で2回目の出演となる由林さんの存在感も、最早三日月に欠かせないものになっていると感じたし、今回が三日月の舞台では初出演となるキャスト陣も違和感なく三日月の世界観に溶け込むと共に、三日月の作品に新たな風を吹き込んでくれているという印象を持った。
正に役者が揃ったという印象。かつて若手を育てながら、質の高い作品を創り続けている主宰の梅原真実さんの仕事を全力疾走による助走と評した事があるが、今の三日月バビロンは梅原さんの目指していた理想に限りなく近い状態に達しているのではないだろうか?
そして、今回の舞台で忘れてはならないのは、かねてより三日月の舞台には欠かせない役者となっていた榎本 淳さんである。榎本さんは三日月の舞台では常に重要なバイプレイヤーの役割を果たして来たが、今回はかつてない程重要な役を演じていて、影の主役と言っても良い程だ。
そして、従来はコミカルな役所を演じる事も多かったが、今回はシリアスでハードボイルドな役所であり、カッコいい榎本さんを存分に観る事が出来る。榎本ファンにはたまらないだろう。
その充実したキャスト陣によって演じられる冒頭部分を観ている段階から、僕はこの作品は三日月にとってひとつの集大成と言える作品になるかも知れないと感じていた。僕自身にしか分からない例えかも知れないが、Mike Oldfieldの作品に例えたらTubular Bells IIIに相当する様な作品になるのではないかと。
Mike Oldfieldの代表作と言えば、デビュー作にして最大のロングセラーとなったTubular Bellsだろう。Mikeはヴァージンからワーナーに移籍した時に第一弾としてTubular Bells IIを発表した。Tubular Bells IIは単にTubular Bells のリメイクではなく変奏曲的な作品だった。そしてTubular Bells IIIでは、今度は単なる変奏曲ではなく、デビューからその時点までのMikeの全ての作品の要素を内包する様な集大成的作品であり、尚かつ大胆にテクノサウンドを取り入れた新しい要素のある作品でもあった。
三日月の場合は劇団三日月少年名義だった頃の初期の代表作と言えば『コクーヤ〜水時計(クレプシドラ)サナトリウム〜』だと僕は思っている。そして、三日月バビロンと劇団名を改称しての旗揚げ公演ではその『コクーヤ』の単純な再演ではなく、大幅に改訂した『虚空夜〜クレプシドラ・サナトリウム〜』を上演している。
そして、今作の『玻璃ノ翅音』では、主人公が姉妹である点や、その姉妹の運命に母親の存在が大きな影を落としている点等『コクーヤ』と共通する要素を見い出せるものの、その舞台設定や物語の展開は全く違うものであり、今までの三日月作品で櫻木バビさんが追い続けてきたテーマに何らかの決着を付ける様な集大成的な作品になるのではないかという予感と同時に、Tubular Bells III同様、今までの作品にはない何か新しい要素が加わっている事を感じさせられると思いながら観ていた。
そして、僕はラストシーンでその予感が当たっていた事を知る。今作のラストシーンは、従来の三日月作品のラストシーンと非常に良く似ているものだったが、決定的に異なっている事がひとつだけあった。
だが、そのたったひとつの違いは、今まで三日月作品を観続けて来た者にとっては、今作を考える上で、そして今までの三日月作品を振り返る上で、非常に重要な大きな違いだったと言えるだろう。
それは大きな驚きだったとも言えるが、同時にそれほど驚くべき事ではないとも言える。その大きな違いがあったとしても、作家櫻木バビさんが、ラストシーンに込める想いは変わらないのだろう。ただ、その想いを表現する方法が少しだけ変わっただけだ。でも、その少しの変化は非常に大きな変化だと言えると思う。
間違いなく今作は三日月バビロンにとって、そして櫻木バビさんにとって、ひとつの区切りとなる作品になったのだと思う。
そう感じながらザムザ阿佐ヶ谷を後にした僕は、電源を切っていたiPhoneの電源を入れ、iPodアプリのシャッフル再生をスタートさせた。最初にかかった曲はMike OldfieldのTubular Bells IIIだった。
その偶然を僕は何故か驚きもせずに当然の事の様に受け止め、Tubular Bells IIIを聴きながら帰路についた。
Tubular Bells IIIはその集大成的な内容に加え、引退をイメージさせる様な歌詞や台詞が含まれていた為に一部のファンの間でMikeの引退説が囁かれる事になった。しかし、実際にはMikeはその後もむしろ従来の作品とは全くアプローチの異なる作品を精力的にリリースし続けている。
三日月バビロンの作品も今後アプローチが大きく変化するだろうか?そしてそれはどの様なアプローチになるのだろうか?Tubular Bells IIIのサウンドに身を委ねながら、僕の胸は期待で高鳴っていた。
by ko1kubota
| 2011-05-27 23:36
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