2011年 06月 21日
三日月バビロン『玻 璃 ノ 翅 音 FRAGILE WINGS - world's end square –』総括 |
三日月バビロンの『玻 璃 ノ 翅 音 ハ リ ノ ハ オ ト FRAGILE WINGS - world's end square –』の公演から、3週間以上が過ぎようとしている。僕は今回初日に速報的な感想を書いたが、公演中という事もありネタバレを避けて書いた事もあって象徴的な分かり難い内容だったと思う。
そこで、千秋楽を終えてから改めて詳しい感想を書くつもりでいたのだが、僕がこの作品を通して感じた事をうまく表現するのは難しく、またその為の重要なポイントが憶測の域を出ない事もあって、どう書いたものか悩んでいる間に随分時間が経ってしまった。
でも、作・演出の櫻木バビさんのTwitterでのつぶやきから、憶測の域を出なかった部分の真実が確認出来たので、改めて感想を書いてみようと思う。ただし、ある程度ストーリーの重要な部分に触れないと書くのが難しいのがある程度のネタバレを含むと思うので、公演後とは言え、再演の可能性もあるのでネタバレを気にする方はここから先は読まない様ご注意頂きたいと思います。
僕が今作で最も強く感じたのが、非常に緊張感、緊迫感が高い作品だという事だ。もっとも、三日月の作品は常に非常にシリアスなテーマを扱っている為、どの作品もある程度の緊張感、緊迫感の高さは感じさせられるのだが、特に近作においては、コミカルなシーンを多用する事で、緊張と緩和のバランスをうまく取っている作品が多く、どちらかと言うとコミカルなシーンが控えめだった今作の緊張感、緊迫感は際立っていたと言えると思う。
こと、緊張感、緊迫感という事では、非常にシリアスで現実的なテーマを扱った『トロイメライ〜翼の枷〜』に匹敵する位のレベルだったと思う。
それは、今作の内容が関東大震災と大きな関わりを持ったものであり、東日本大震災から約2ヶ月後でもあり、その大震災からの復興はまだこれからという時期に公演されたものであった事から当然の事だと言えると思う。
今回の上演期間中、2日目と千秋楽は雨の中での公演となった。舞台でも外は凄い雨だというシーンがあり、現実と舞台の境界が曖昧に感じられる間隔を味わったのだが、舞台上の設定は関東大震災の2年後、現実の世界は東日本大震災の2ヶ月後であり、観客はどうしても現実のリアルな問題と舞台とをシンクロさせてしまうのは避けられないだろう。僕にはこの舞台の現実との強いリンクが現実の雨を呼んだのではないかとすら感じさせられた。
忘れてはならないのが、今作は本来2010年10月に上演される筈だったのが、今年5月に延期された作品であるという事実だ。大震災の後の公演であるから、設定に関東大震災を取り入れたのではなく、10月以前には出来上がっていた筈のオリジナルの脚本からその設定はあったのだと思う。それは僕の憶測でしかなかったのだが、櫻木バビさんのTwitterでのつぶやきで実際にそうだった事が裏付けられた。
そして、公演が震災の2ヶ月後という事になった配慮から、かなりオリジナル脚本に改変を施したと思われる。それは、登場人物達が震災という言葉を慎重に避けていた事からも容易に想像出来た。
そして、その配慮による改変が、今作の緊張感、緊迫感の高さにも大きく関係していると言える。つまり、ある人が大きな心の傷を負った事柄の話題を避けようとする行動は、その人の負った心の傷の大きさを逆に強く印象付ける効果があるからだ。
つまり、震災という言葉を避ける事で、むしろ観客は現在がまだ震災の大きな傷跡がまだ癒えていない状況である事を強く意識せざるを得ない。その事が現実と舞台のシンクロを高め、観客を舞台の世界に引き込む力になっていたと言えるだろう。
おそらく、公演の延期によって大震災の後の上演になってしまった事で、作・演出の櫻木バビさんは大いに悩んだに違いないと思う。しかも大震災から公演まではたった2ヶ月の期間しかなく、特に大震災の直後からしばらくは、脚本を書き直したり稽古したりという事もままならない様な状況だったに違いないと思うので、実際にはもっと時間の猶予は少なかったと思う。
その間に脚本を改変し、稽古をやり直して公演にこぎ着けたのは、非常に困難な事も多かったと思う。しかし、舞台の出来はそんな事は微塵も感じさせない位充実したものだった。
初日の感想にも書いたが、それは現在の三日月のキャスト陣のレベルが非常に充実している事の現れでもあったと思う。
今作の脚本の非常に秀逸な点のひとつに、多彩な登場人物のきめ細かやな描写にあるが、それも出演者一人一人のレベルが高かった為に可能になったのだと思う。
従来の三日月作品も登場人物のきめ細やかな描写というのは特徴のひとつだったのだが、今作は特にそれが際立っている。登場人物一人一人が、それぞれその人を主役にした作品が1本書けるのではないかと思う位、それぞれドラマを抱えているのが感じさせられるのである。
それは例えば、かなり終盤になって登場する出番の少なめだった主人公の親戚、真にも当てはまるし、冒頭から登場してはいたが終盤近くまでは喫茶店の常連客の一人というエキストラに近い役所に思えていた京湖にも言える事である。
そして、その中で最も要となっていたのが、女給頭、蔦子役の深澤寿美子さんの存在だったと思う。
深澤さんは非常に芸達者な役者さんで、これまでの舞台でもその実力を遺憾なく見せてくれていたのだが、どちらかと言うとコミカルな役柄を担当する事が多く、物語の中核に関わって来る役所は少なかったと思う。しかし、今作では物語の語り部として重要な役所を任され、それを見事に果たしていたと思う。
今作では多彩な登場人物達が、それぞれの視点で自分の物語を語る。しかし、主人公の翅音にしても、回想シーンでの翅音の姉音羽、姉妹の母であるじょおんにしても、情報ブローカーの退助にしても、自分の視点で物語を語るがそれはそれぞれが知り得る限定された内容であり、それらを組み合わせる事で多角的に物語の全容は浮かび上がって来るのではあるが、全てを知っている訳ではないものの、ある程度全体像を把握しているのは、元友倉家の使用人だった蔦子と朗だけであり、蔦子がバラバラに語られる物語をひとつに紡ぐという、語り部達のアンカー役を担っていると言える。
従来ならそういう要の役は梅原さんかかやべさんが演じていたと思う。今作ではその役所を深澤さんが担う事で、梅原さんもかやべさんも他の役を演じる事が出来たと言う事が出来、それが今作の登場人物の多彩さ、役柄の幅の広さに一役買っていると言えると思う。
その事が、僕が今作を三日月の集大成的作品と感じた要因のひとつにも関係している。今作の内容には幾つも過去の三日月作品を彷彿とさせるシーンが内包されている。例えば、姉妹の母役のかやべさんがその生い立ちを語るシーンは、東京夢華録シリーズで上演されて来た一人芝居(ポエトリーリーディング)を彷彿とさせるものだったし、狐の面を被って舞踊りながら昔話を語るシーンも、過去の作品でも良く似たシーンがあったと記憶しているし、ラストでの主人公の台詞の一部にしても過去の作品からのリプライズの様だ。
そういう構成を取っている事が僕が今作を集大成的作品と感じた理由のひとつだが、それが可能になったのもキャスト陣の充実による所が大きいのではないかと思う。
主宰の梅原さんは若手の役者さんが充分な実力を備えて来た事により、このタイミングでその様な集大成的な作品を作ろうと思ったのかも知れないと思う。だからこそ、そのキャストの一角が崩れたら目標としていた作品には到達しないと考え、舞台の延期を決断したのだと思うが、その事によって公演直前に現実に大震災が起こってしまうという困難な状況に陥ってしまったのは、何という巡り合わせだろうと思う。
梅原さんの気持ちを察すれば、その作品を当初の想定した内容から改変しなければならなかったのは無念だったのではないかと思う。でも、僕はその当初の脚本の内容を全く知らないという立場から勝手な事を言わせてもらうと、それは必然だったのかも知れないと思う。
僕は、結果的に今作は非常に困難な状況にある今、公演するに相応しい内容になっていたと思う。優れた芸術作品にとって時代性と言うのは重要な要素だと思う。同時に普遍性というのも大事なものであるが、三日月の作品というのはどちらかと言うと、いつの時代にも人が抱えるであろう本質的な問題を扱った作品が主であり、普遍性の方が強かったと思うのだが、今回もその普遍性的な内容の強い作品でありながら、いくつかの偶然が重なる事によって同時に時代性の非常に強い作品にもなったと言える。
それは単なる偶然であるかも知れないが、僕には非常に優れたアーティストだからこそ巡り合う事になった必然の様に思える。
それは今作のタイミングが、三日月バビロンという劇団が過去最も充実した状態の時に巡って来た事も含めて必然だったとしか思えないのだ。
『トロイメライ〜翼の枷〜』以降、櫻木バビさんは従来の作品とは異なったアプローチの作品を描いて来たと思う。そのひとつに従来の作品よりより強い希望を描こうとしている様に感じられるという事が挙げられる。
今作では、『トロイメライ〜翼の枷〜』以前の作品のアプリーチに近い構成の作品でありながら、絶望的な状況からの最後のドンデン返しによってより強い希望を描く事に成功していると思う。
その絶望は舞台の上では主人公以外には公然の秘密となっている。主人公は本当はその絶望的な事実を知っているが、それがあまりに受け入れ難いものである事から記憶喪失となり、幻覚を見る事でその事実を直視する事から逃避している。
主要な登場人物はその事実も主人公が幻覚を見ている事も知って、それに合わせてお芝居をして主人公を絶望的な現実を直視する事から守ろうとしている。その事は直接的には明かされないが、物語が進行するに連れ観客にもその事が薄々分かって来る。その事がこの作品の緊張感、緊迫感の要因のひとつになっていると言えるだろう。
観客は主人公の記憶がいつ戻るのか、絶望的な現実に向き合う事になるのか固唾を飲んで見守る事になる。その観客の気持ちの代弁者としての役を演じているのが、主要キャストで唯一事情を知らない茜役の今夢子さんだ。
主人公が自分の幻覚に合わせて周囲がしているお芝居のほつれに気付いてしまい、自分の見ている幻覚に疑念を感じた時に、事情を知らず、お芝居をする理由等ない筈の茜を問い詰めるのだが、事情を知らされていない茜も観客同様、周囲の人達による不自然なお芝居の意味する事には薄々感づいていて、問い詰められるとしどろもどろになってしまう。その事で観客は自分が薄々感づいていた事が正しかった事を知るのである。
この様に説明的な台詞を用いずに、状況を説明するのは櫻木バビさんの脚本の真骨頂なのだが、それも今夢子さんの演技力にかかっていると言え、今さんの成長を強く印象付けられるシーンだった。
また、女性が多い三日月の中にあって男性役を演じられる貴重な存在だった暁月 柊さんも、今回は今まで以上に出番も多く、主人公を守ろうとする周囲の人達の気持ちを表現する上で重要な役割を果たしていて、その存在感を今まで以上に発揮していたと思う。
由林さん、ゆきなさんのお二人も、どちらかというとおっとりとした演技で、従来よりコミカルなシーンが少ない今作で、雰囲気を和ませる役割を果たしていたと思うし、千明さん、藤木 智将さんの新人お二人も従来の三日月の舞台には余り登場しなかった個性を持った役者さんで、今作の登場人物の幅の広さに一役買っていたと思うし、新鮮な印象を残してくれたと思う。
僕はこの状況を初日の感想で、役者が揃ったと表現した。僕は長く三日月の舞台を観て来たが、今が最も三日月の役者陣が充実して結束力も固く良い状態なのではないかと感じている。
その状況を作る上で最も重要な存在が主役を演じている木原春菜さんである事は間違いないと思う。彗星の様に現れ、出演2作目から堂々と主役をこなして来た木原さんの存在なくしては今の三日月バビロンは存在し得ないと言って良いと思う。
三日月バビロンの集大成的作品と言える今作で、集大成的なラストシーンを任された木原さんの台詞に説得力がなければ、現実の大震災の僅か2ヶ月後に上演された今作は、その現実の重さに負けて空々しいものになってしまったに違いないと思う。
しかし、そうはならずに、今現在この重い状況の現実に直面している全ての人へのメッセージとして、木原さんの台詞は観客の胸に届いたのではないかと思う。
僕は代弁者という言葉をよく使うが、それは決してネガティブな意味ではなく、演劇というものが集団芸術である限り、作・演出の伝えたいメッセージを的確に伝えられる代弁者の存在は不可欠であり、櫻木バビさんは木原春菜さんという理想的な代弁者を得たと言えると思う。
櫻木さんと木原さんの出会いという奇跡が、大震災の直後に今作が上演されるという奇跡を呼んだと言えると思う。
そういった意味で今作は三日月バビロンの集大成的作品であると同時に、三日月バビロンという劇団の歴史の上で大きな節目となる作品になったと思う。
同時に今作を越えて、三日月バビロンがどういう方向性に向かうのか、今後の作品が大いに楽しみになったと思う。
そこで、千秋楽を終えてから改めて詳しい感想を書くつもりでいたのだが、僕がこの作品を通して感じた事をうまく表現するのは難しく、またその為の重要なポイントが憶測の域を出ない事もあって、どう書いたものか悩んでいる間に随分時間が経ってしまった。
でも、作・演出の櫻木バビさんのTwitterでのつぶやきから、憶測の域を出なかった部分の真実が確認出来たので、改めて感想を書いてみようと思う。ただし、ある程度ストーリーの重要な部分に触れないと書くのが難しいのがある程度のネタバレを含むと思うので、公演後とは言え、再演の可能性もあるのでネタバレを気にする方はここから先は読まない様ご注意頂きたいと思います。
僕が今作で最も強く感じたのが、非常に緊張感、緊迫感が高い作品だという事だ。もっとも、三日月の作品は常に非常にシリアスなテーマを扱っている為、どの作品もある程度の緊張感、緊迫感の高さは感じさせられるのだが、特に近作においては、コミカルなシーンを多用する事で、緊張と緩和のバランスをうまく取っている作品が多く、どちらかと言うとコミカルなシーンが控えめだった今作の緊張感、緊迫感は際立っていたと言えると思う。
こと、緊張感、緊迫感という事では、非常にシリアスで現実的なテーマを扱った『トロイメライ〜翼の枷〜』に匹敵する位のレベルだったと思う。
それは、今作の内容が関東大震災と大きな関わりを持ったものであり、東日本大震災から約2ヶ月後でもあり、その大震災からの復興はまだこれからという時期に公演されたものであった事から当然の事だと言えると思う。
今回の上演期間中、2日目と千秋楽は雨の中での公演となった。舞台でも外は凄い雨だというシーンがあり、現実と舞台の境界が曖昧に感じられる間隔を味わったのだが、舞台上の設定は関東大震災の2年後、現実の世界は東日本大震災の2ヶ月後であり、観客はどうしても現実のリアルな問題と舞台とをシンクロさせてしまうのは避けられないだろう。僕にはこの舞台の現実との強いリンクが現実の雨を呼んだのではないかとすら感じさせられた。
忘れてはならないのが、今作は本来2010年10月に上演される筈だったのが、今年5月に延期された作品であるという事実だ。大震災の後の公演であるから、設定に関東大震災を取り入れたのではなく、10月以前には出来上がっていた筈のオリジナルの脚本からその設定はあったのだと思う。それは僕の憶測でしかなかったのだが、櫻木バビさんのTwitterでのつぶやきで実際にそうだった事が裏付けられた。
そして、公演が震災の2ヶ月後という事になった配慮から、かなりオリジナル脚本に改変を施したと思われる。それは、登場人物達が震災という言葉を慎重に避けていた事からも容易に想像出来た。
そして、その配慮による改変が、今作の緊張感、緊迫感の高さにも大きく関係していると言える。つまり、ある人が大きな心の傷を負った事柄の話題を避けようとする行動は、その人の負った心の傷の大きさを逆に強く印象付ける効果があるからだ。
つまり、震災という言葉を避ける事で、むしろ観客は現在がまだ震災の大きな傷跡がまだ癒えていない状況である事を強く意識せざるを得ない。その事が現実と舞台のシンクロを高め、観客を舞台の世界に引き込む力になっていたと言えるだろう。
おそらく、公演の延期によって大震災の後の上演になってしまった事で、作・演出の櫻木バビさんは大いに悩んだに違いないと思う。しかも大震災から公演まではたった2ヶ月の期間しかなく、特に大震災の直後からしばらくは、脚本を書き直したり稽古したりという事もままならない様な状況だったに違いないと思うので、実際にはもっと時間の猶予は少なかったと思う。
その間に脚本を改変し、稽古をやり直して公演にこぎ着けたのは、非常に困難な事も多かったと思う。しかし、舞台の出来はそんな事は微塵も感じさせない位充実したものだった。
初日の感想にも書いたが、それは現在の三日月のキャスト陣のレベルが非常に充実している事の現れでもあったと思う。
今作の脚本の非常に秀逸な点のひとつに、多彩な登場人物のきめ細かやな描写にあるが、それも出演者一人一人のレベルが高かった為に可能になったのだと思う。
従来の三日月作品も登場人物のきめ細やかな描写というのは特徴のひとつだったのだが、今作は特にそれが際立っている。登場人物一人一人が、それぞれその人を主役にした作品が1本書けるのではないかと思う位、それぞれドラマを抱えているのが感じさせられるのである。
それは例えば、かなり終盤になって登場する出番の少なめだった主人公の親戚、真にも当てはまるし、冒頭から登場してはいたが終盤近くまでは喫茶店の常連客の一人というエキストラに近い役所に思えていた京湖にも言える事である。
そして、その中で最も要となっていたのが、女給頭、蔦子役の深澤寿美子さんの存在だったと思う。
深澤さんは非常に芸達者な役者さんで、これまでの舞台でもその実力を遺憾なく見せてくれていたのだが、どちらかと言うとコミカルな役柄を担当する事が多く、物語の中核に関わって来る役所は少なかったと思う。しかし、今作では物語の語り部として重要な役所を任され、それを見事に果たしていたと思う。
今作では多彩な登場人物達が、それぞれの視点で自分の物語を語る。しかし、主人公の翅音にしても、回想シーンでの翅音の姉音羽、姉妹の母であるじょおんにしても、情報ブローカーの退助にしても、自分の視点で物語を語るがそれはそれぞれが知り得る限定された内容であり、それらを組み合わせる事で多角的に物語の全容は浮かび上がって来るのではあるが、全てを知っている訳ではないものの、ある程度全体像を把握しているのは、元友倉家の使用人だった蔦子と朗だけであり、蔦子がバラバラに語られる物語をひとつに紡ぐという、語り部達のアンカー役を担っていると言える。
従来ならそういう要の役は梅原さんかかやべさんが演じていたと思う。今作ではその役所を深澤さんが担う事で、梅原さんもかやべさんも他の役を演じる事が出来たと言う事が出来、それが今作の登場人物の多彩さ、役柄の幅の広さに一役買っていると言えると思う。
その事が、僕が今作を三日月の集大成的作品と感じた要因のひとつにも関係している。今作の内容には幾つも過去の三日月作品を彷彿とさせるシーンが内包されている。例えば、姉妹の母役のかやべさんがその生い立ちを語るシーンは、東京夢華録シリーズで上演されて来た一人芝居(ポエトリーリーディング)を彷彿とさせるものだったし、狐の面を被って舞踊りながら昔話を語るシーンも、過去の作品でも良く似たシーンがあったと記憶しているし、ラストでの主人公の台詞の一部にしても過去の作品からのリプライズの様だ。
そういう構成を取っている事が僕が今作を集大成的作品と感じた理由のひとつだが、それが可能になったのもキャスト陣の充実による所が大きいのではないかと思う。
主宰の梅原さんは若手の役者さんが充分な実力を備えて来た事により、このタイミングでその様な集大成的な作品を作ろうと思ったのかも知れないと思う。だからこそ、そのキャストの一角が崩れたら目標としていた作品には到達しないと考え、舞台の延期を決断したのだと思うが、その事によって公演直前に現実に大震災が起こってしまうという困難な状況に陥ってしまったのは、何という巡り合わせだろうと思う。
梅原さんの気持ちを察すれば、その作品を当初の想定した内容から改変しなければならなかったのは無念だったのではないかと思う。でも、僕はその当初の脚本の内容を全く知らないという立場から勝手な事を言わせてもらうと、それは必然だったのかも知れないと思う。
僕は、結果的に今作は非常に困難な状況にある今、公演するに相応しい内容になっていたと思う。優れた芸術作品にとって時代性と言うのは重要な要素だと思う。同時に普遍性というのも大事なものであるが、三日月の作品というのはどちらかと言うと、いつの時代にも人が抱えるであろう本質的な問題を扱った作品が主であり、普遍性の方が強かったと思うのだが、今回もその普遍性的な内容の強い作品でありながら、いくつかの偶然が重なる事によって同時に時代性の非常に強い作品にもなったと言える。
それは単なる偶然であるかも知れないが、僕には非常に優れたアーティストだからこそ巡り合う事になった必然の様に思える。
それは今作のタイミングが、三日月バビロンという劇団が過去最も充実した状態の時に巡って来た事も含めて必然だったとしか思えないのだ。
『トロイメライ〜翼の枷〜』以降、櫻木バビさんは従来の作品とは異なったアプローチの作品を描いて来たと思う。そのひとつに従来の作品よりより強い希望を描こうとしている様に感じられるという事が挙げられる。
今作では、『トロイメライ〜翼の枷〜』以前の作品のアプリーチに近い構成の作品でありながら、絶望的な状況からの最後のドンデン返しによってより強い希望を描く事に成功していると思う。
その絶望は舞台の上では主人公以外には公然の秘密となっている。主人公は本当はその絶望的な事実を知っているが、それがあまりに受け入れ難いものである事から記憶喪失となり、幻覚を見る事でその事実を直視する事から逃避している。
主要な登場人物はその事実も主人公が幻覚を見ている事も知って、それに合わせてお芝居をして主人公を絶望的な現実を直視する事から守ろうとしている。その事は直接的には明かされないが、物語が進行するに連れ観客にもその事が薄々分かって来る。その事がこの作品の緊張感、緊迫感の要因のひとつになっていると言えるだろう。
観客は主人公の記憶がいつ戻るのか、絶望的な現実に向き合う事になるのか固唾を飲んで見守る事になる。その観客の気持ちの代弁者としての役を演じているのが、主要キャストで唯一事情を知らない茜役の今夢子さんだ。
主人公が自分の幻覚に合わせて周囲がしているお芝居のほつれに気付いてしまい、自分の見ている幻覚に疑念を感じた時に、事情を知らず、お芝居をする理由等ない筈の茜を問い詰めるのだが、事情を知らされていない茜も観客同様、周囲の人達による不自然なお芝居の意味する事には薄々感づいていて、問い詰められるとしどろもどろになってしまう。その事で観客は自分が薄々感づいていた事が正しかった事を知るのである。
この様に説明的な台詞を用いずに、状況を説明するのは櫻木バビさんの脚本の真骨頂なのだが、それも今夢子さんの演技力にかかっていると言え、今さんの成長を強く印象付けられるシーンだった。
また、女性が多い三日月の中にあって男性役を演じられる貴重な存在だった暁月 柊さんも、今回は今まで以上に出番も多く、主人公を守ろうとする周囲の人達の気持ちを表現する上で重要な役割を果たしていて、その存在感を今まで以上に発揮していたと思う。
由林さん、ゆきなさんのお二人も、どちらかというとおっとりとした演技で、従来よりコミカルなシーンが少ない今作で、雰囲気を和ませる役割を果たしていたと思うし、千明さん、藤木 智将さんの新人お二人も従来の三日月の舞台には余り登場しなかった個性を持った役者さんで、今作の登場人物の幅の広さに一役買っていたと思うし、新鮮な印象を残してくれたと思う。
僕はこの状況を初日の感想で、役者が揃ったと表現した。僕は長く三日月の舞台を観て来たが、今が最も三日月の役者陣が充実して結束力も固く良い状態なのではないかと感じている。
その状況を作る上で最も重要な存在が主役を演じている木原春菜さんである事は間違いないと思う。彗星の様に現れ、出演2作目から堂々と主役をこなして来た木原さんの存在なくしては今の三日月バビロンは存在し得ないと言って良いと思う。
三日月バビロンの集大成的作品と言える今作で、集大成的なラストシーンを任された木原さんの台詞に説得力がなければ、現実の大震災の僅か2ヶ月後に上演された今作は、その現実の重さに負けて空々しいものになってしまったに違いないと思う。
しかし、そうはならずに、今現在この重い状況の現実に直面している全ての人へのメッセージとして、木原さんの台詞は観客の胸に届いたのではないかと思う。
僕は代弁者という言葉をよく使うが、それは決してネガティブな意味ではなく、演劇というものが集団芸術である限り、作・演出の伝えたいメッセージを的確に伝えられる代弁者の存在は不可欠であり、櫻木バビさんは木原春菜さんという理想的な代弁者を得たと言えると思う。
櫻木さんと木原さんの出会いという奇跡が、大震災の直後に今作が上演されるという奇跡を呼んだと言えると思う。
そういった意味で今作は三日月バビロンの集大成的作品であると同時に、三日月バビロンという劇団の歴史の上で大きな節目となる作品になったと思う。
同時に今作を越えて、三日月バビロンがどういう方向性に向かうのか、今後の作品が大いに楽しみになったと思う。
by ko1kubota
| 2011-06-21 23:01
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